HV2

第六話

「でも男でもない」

彼は私にピッタリ歩調を合わせて階段を上り、斜め上から私を見下ろしながら言った。目を細めて余裕綽々の笑顔を見せている。

ムッとして私は足を止めた。二階と三階の間の階段の踊り場で、かなり軽くなったノートを抱えて両足を広げて軟派野郎を見返した。

どうして彼が私を〝男ではない〟と思っているのか、言いかえればなぜ〝分かっている〟のか不思議な気もしたが、どう見ても明らかな部外者にいちいち問い質すのも面倒だし時間の無駄だ。

要するに、私はキレていた。

「おれは、男だ。確かに男にもアンタを受け入れるアナってもんもあるだろうさ。でもおれにはそっちの趣味はない。あんたに興味もない。
ノートを返せよ。これを運んだら部活に出たい。急いでるんだ。それに部外者は校内立ち入り禁止だ。サッサと出てってくれ」

彼は一瞬目を見開いてから、ピューッと軽く口笛を吹いた。気ぃつえーと小声で言うとニッと笑って「ますます気に入った」とつぶやく。

「まぁ、ノートを運ぶのくらい手伝わせてよ。君のそのかわいい手が痛くなるのも見ていて忍びないし。それにオレは部外者じゃない。もう少しでこの学校に転校してくるからさ」

「はぁ⁉」

驚いて私が叫ぶや否や、彼はパッと走りだし三階までの残りの階段を一気に駆け上がった。そしてまたシャラリと鎖を鳴らして私を振り返る。身軽なダンサーの様な華麗な動きだった。

「この階でいいの? 何組に運べばいい?」

「──A組」

一拍置いて私は答えた。私のクラスは階段を上ってすぐ右側だ。どうせここまで来たのだから運んでもらおう。

私が階段を上って教室に入る頃には彼は教師用の大机にノートを乗せて、入ってくる私を見ていた。先生の机に軽く腰掛けて腕を組んで待っている。

私は無言で彼の横を通り過ぎて窓際の先生の机まで歩いた。ノートを机に乗せると彼が運んでくれた分に残りのノートを重ねる。

ザッと目を通してきちんと出席番号順に並んでいるか確認した。番号が狂っているとそれだけで里中先生の機嫌がガクンと落ちる。私はノートを机の上にきっちり整えて置くと、すぅっと息を吸い込んだ。

「……ノート、運んでくれてありがとう」

不愉快な奴だけど運んでもらって無視も出来ない。私はお礼を言った。

彼は私がノートを整える間、机に腰掛けたまま自分の指に嵌めた分厚い指輪をぐりぐり回していたけど、私の言葉を聞いてこちらに顔を向けた。

「どーいたしまして」そう言うと彼はニヤッと笑った。

「転校してくるって、ほんと?」
確認の為に私は訊いた。さっきのが聞き間違いならいいのに……。

「ホント」

「まさか、二年じゃないよね?」

「まさかの二年だよ。しかもA組」

にっこり笑って彼が言った。

「もうクラスも決まってるワケ?」

同じクラスになるとは……。背中に寒気を感じながら私は訊き返した。私が転入してきた時は当日までクラスは教えてもらえなかった。転校生によって違うのだろうか。

「決まってるんじゃない。オレが決めた」

訳が分からなくて眉をひそめて彼を見た。彼は机に腰掛けて両手も掛けていたが、その右手を私に差し出すと「そういうわけで、ヨロシク」と言ってバチンとウインクする。

私は彼のすんなりした右手を無言で眺めた。とてもじゃないが握手なんぞする気になれない。

棒立ちになっている私を見て、彼はスッと私の正面に立つといきなり私の右手を掴んだ。やはり素早い動き。速い動きにかなり慣れ始めた空手部の私でもその速さには舌を巻いた。

大きな手が私の右手そのものをくるみ込む様に掴む。

その瞬間、右手の触れられた場所から奇妙な圧迫を感じた。彼の体温が目に見えない形を持って、私の中に入り込んで来るようなイメージ。

皮膚感覚ではなく、腕の中身、骨の周りをスルスルと奥に向かって動いてくる。それは右手から触手を伸ばすように肩、鎖骨、胸骨へと気配を広げていく。

私は咄嗟に彼の手から自分の手を引き抜いた。圧迫もズルンと引き抜かれる。小学生のころ、サツマイモを学校の畑で引き抜いた時の様な感覚。

彼は右手を前に出したまま、目を見開き、軽く口を開けて驚愕の表情で私を見ている。

「……あんたは……誰かのピュア……」

彼は私を見つめて、小さくつぶやいた。見開かれた眼はどこか焦点が合っていなくて、誰からも見える私の表面ではなく、内側の深い場所まで覗かれているような錯覚を感じた。

思わず一歩後ろに下がる。彼は私を捕まえようとでもいうように両手を広げて、今度はグッと顎を引いてこちらに向かって足を踏み出す。彼の手が私に伸びる。

私は後ろに下がりつつ、正拳突きの構えをとった。でもあの速さで来られたらきっと──勝てない。

案の定、彼は前に出していた私の左腕をあっという間に掴んだ。彼は私の左腕を掴んだ右手を後ろに引く。勢い、身体ごと彼にぶつかる形になった。

ドンとくる衝撃を覚悟していたのに、意外にも彼は全身で私を柔らかく受け止めて抱き寄せた。

「見つけた……。やっと見つけた! 結合前のピュア。これでオレは……」

私を抱く彼の腕が細かく震えている。何が何だか分からない。逃げ出したいのに私を抱く力は強く、身をよじるのがやっとだった。

彼は私から少し身体を話すと、右手を私の顎にあてて振り仰がせた。

「お前は、オレの女だ」

絶句したまま私は彼を見上げた。ゆっくり彼の顔が近づいてくる。私は首を後ろにのけ反らせて、少しでも距離をとろうと抵抗する。

その時ほんわりと辺りが明るくなったような気がした。安らぎを含んだ暖かい光。それなのにその光はピンと張りつめて緊張が漂っているような感じもした。

迫ってくる彼の唇から顔をそむけた時、彼の後ろに何かが動くのが見えた。