HV2

第五話

実際先生は妙にそわそわして、落ち着きをなくしているように見える。そしてワザとらしく時計を見て言った。

「あら、会議の時間だわ。ノートの事よろしくね。それとお兄さんには私から連絡をいれますから、帰ったら伝えておいてね」

そのまま私に視線を寄こすことなく、里中先生は足早に教室を出て行った。最後に少し見えた横顔の頬がいつになく紅潮して、この四月に担任になって以来、初めて生気のある顔に見えた。

私はしばらく動けなかった。
頭が混乱してぐるぐるモノを考えると言うより、脳みそが頭蓋骨の中でギュッと固まって一切の思考がストップしてしまった状態に近い。

下を向いたら、頬に伸びた髪が触れた。髪を切らなきゃ……と思いながら、ノートを取りに行かなければならないことを思い出した。

部活をやる時間はあまりないな。そう考えてダルく感じる足を一歩踏み出した。


ノートも三十冊以上となると結構重い。職員室から教室までの道のりを辿っているうちに、里中先生に対する怒りがじわじわと襲ってきた。

私は常々、人間には怒りの感じ方に二通りあるのではないかと思ってきた。嫌なことを言われて即座に怒れる瞬間湯沸かし器型と、じんわりと温まって、最後にはかなりの高熱になるホットプレート型。

私はどう考えても後者だ。怒り心頭になるまでの時間は掛かるが、スイッチを切らない限りいつまでも熱い。根に持つタイプなのかもしれない。

将来の事ってなんだよ。私はまだ学生で、社会のしくみなどよく分からないのは自覚している。でも全く何も考えていないわけじゃない。

それなのにあんな風に言われたら夢も希望も持てなくなってしまうではないか。私の様な普通でない人間は、この世界でいわゆる〝まとも〟に生きることは不可能なのか。

それならば、こちらからおさらばしたいものだ。どうせ、生きていたって──

「うわぉ!」

怒りからか落ち込みからか、ネガティブな感情のスパイラルに自分自身を巻き込んでいた時、その声が聞こえた。

「きみっ。ちょっ……待ってよ。そこの、ノート抱えてる子!」

私は声のする方に視線を向けた。声は窓の外からだったので、自分が呼ばれているのか今一つ自信がなかったけど、私は確かにノートを抱えている。

二年生の教室は職員室から結構遠い。中庭越しの二号棟の一階の廊下を歩いていた私は、窓の外に目をやった。

声の主は明らかに、私に視線を寄こしている。中庭には、吹奏楽部の子がフルートやトランペットを持って練習中だったが、今は手を休めて声の主に視線を投げている。

そりゃあ、見るだろう。何しろその声の主の男の子は私服で、しかもかなり派手。

上半身は中に黒のタンクトップを着て、重ねられたアルファベットのロゴの入ったTシャツはなんとピンク。ラメでも入っているのか所々キラキラしている。

下は七分丈の黒のパンツで腰に鎖が巻いてある。腕にもバングルなどのアクセサリーがじゃらじゃらしていた。

私はポカンとして彼を見返した。彼はシャラリと鎖を鳴らすと窓のすぐ外側に寄って来た。

「すげーっ。君、かーわいぃねぇ」

両手の人差し指をピストルの形にして、私を指しながら彼は言った。そのあまりのチャラさに、絶句して私は足を止めた。

「もー、さっきから出会う子みんな、まじオカチメンコで期待薄って思ってたとこだったんだ。テニス部で会ったナナミもイケてたけど……君はドンピシャ! めちゃくちゃ好み!」

全開に開けられた廊下の窓枠に両腕を掛けて、彼は私を注視していた。今まで派手な服ばかりに目が行って、肝心な顔にあまり注意を向けてなかったけど、改めて首から上を見てみると、綺麗な顔立ちの男の子だった。

染めているのか、髪は長めの茶髪で、瞳も髪に近いブラウン。結構切れ長の目だ。通った細い鼻梁。微笑みの形をとどめた唇……。

くらり、と軽いめまいがした。何かの記憶が頭の一番奥の奥で疼いている。でもその記憶は公園で感じる甘さと同じで、踏み込むと暗い穴が待ち受けている気がする。

強い自己防衛本能で、その甘くて痛い記憶から急いで逃げた。

私は足に力を入れると、ノートを抱え直した。なんとか落とさないで済んだ。

「ね、ね、ね、君さ、カレシいるの? 名前は? なにちゃん? 何年生?」

私を引きとめようと手を振って、矢継ぎ早に彼は質問してきた。私は一つ息をついて言った。

「──おれ、男だけど」

普段は使わない一人称で返事を返した。第一この高い声で〝おれ〟なんて言ってもカッコ良くないし……。

「ゲッ! うそだろっ」

言うが早いか彼は窓枠に両手を掛けてぐいっと身体を持ちあげた。かと思ったら、もう私の目の前に立っていた。そのあまりの素早さに、さっきとは違う意味で目がくらんだ。思わずよろけてノートを二冊ほど落してしまった。

目の前に来た派手な男子は、目を眇めて上から下まで私を見ている。こうして一緒に廊下に立つと、割と背が高いのがわかる。治希より少し大きいかな。兄と同じくらいか。

「確かにパンツスタイルだけど……女子でもズボン穿く子いるしなぁ。ん、んん~。あ、やっぱり──」

落ちたノートを拾ってくれて、腰をかがめたついでに私の下半身を舐めるように見る。私の持つノートの上に拾った分を重ねてから、ピッと右手の人差し指をもう一度ピストルを撃つように私に向けた。

「君にはオレを受け入れる穴がある!」

クルッと方向転換して、私は歩きだした。なんて失礼な言い草だ。さっきのオカチメンコ発言といい、ルッキズム丸出しの女性蔑視としか捕らえられない。里中先生からの怒りと伴わせて、あまりの憤りにドスドス足音を鳴らして教室に向かった。

中庭越しの廊下をそのまま進むと、中庭に出る外廊下と教室のある三階に向かう階段とが、左右に分かれる所まで来る。私は右に折れて階段を上った。

段々手がしびれてきたなぁと思ったら、ノートがいきなり三分の二ほどなくなった。

「ねぇ、無視しないでよ。運ぶの手伝うからさ。可愛い子にはとことん優しく、それ以外にはそれなりに優しくがオレの信条だから。基本、女の子はみんな好きだし」

彼はノートを持って私を覗きこむ様にしながら階段を一緒に上る。顔を傾けると左耳につけたわっか型のシルバーのピアスがほんの少し揺れた。

「女じゃないって言ってんだろ」

私はちょっとだけ彼に視線を投げたけど、そのまま前方を見つめて階段を進んだ。

言い返してから、この軟派くんが追いかけて来た足音も気配も全く感じられなかったことに、ひどく違和感を持った。