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第四十八話

反射的に激しい哀しみが襲ってきて、一気に涙ぐむのが分かった。

流が慰めてくれて、やっと止まった涙だったのに。だめだ、と思って涙を我慢して微笑もうとした。でも騙せなかった。

「蘭……?」

流の眉が、不安げに寄せられる。

「どうせなら、今から聖界にいってやっちまえばいい」

リトが冗談まじりに割り込んでくれた。その口調は本気で聖界に行くことを勧めていると言うよりも、私の今の反応を察知して、流に私の本当の考えがバレないようにしてくれたのだと分かった。──リトには伝えた、私の本当の気持ちが。

リトの割り込みのお蔭で、私の涙もどうにか止めることが出来た。でもまだちゃんと笑えそうにない。流から自分の顔を隠すのに一番の方法は何かと考える。出た答えは、流の胸に顔を埋めて隠れる、だった。これが一番見えないだろう。

私は流の手をすり抜けてその広い胸に顔をうずめた。流はまたキュウッと私を抱きしめる。そこでリトが流に話しかけた。

「それにしてもお前、戻ってくるのが早かったな。菜々美ちゃんは大丈夫だったのか?」

その質問に、あれ? と思った。なんで流が菜々美ちゃんを送って行ったことをリトが知っているんだろう。私は流から体を離すとリトの方を向いた。理由を聞こうと思ったら、リトの声が直接頭に響いて私の疑問に答えた。

(流が念波で伝えてきた。蘭が一人になるから気をつけて欲しいと)

うわぁ。やっぱり覗かれてるんだ、心の中。

(流に頼まれたのに、結果的に蘭を危険な目に合わせてしまった。悪かったと思っている。本当だぞ)

(リトは悪くない)

私はさっきも思ったことを思念としてリトに返した。本当に聞こえているのかちょっと不安だったけど、杞憂だったらしい。リトは私に、ふんわりした笑顔をよこした。金髪がその笑顔を美しく彩って、本物の天使みたいに見える。──まあ、中身は別モノだけど。

流はちょっと私たちの様子を不思議そうに見ていた。でも特に何も問いかけたりしないで、リトの質問に答えた。

「遠藤が帰り道の途中で来てくれたんだ。大叔母さんの三回忌の集まりを逃げ出して来たと言っていた。菜々美ちゃんのこと、すごく心配していたみたいだ。だから彼女のことは遠藤に任せて、ぼくは学校に戻った。そしたら部室の方から蘭の気配がしたから……」

そうだったんだ。遠藤が菜々美ちゃんを心配して……。んん? これはもしかして……と思ったけど、あまり深く勘ぐるのはやめにした。間接的にだけど、私も遠藤に助けられたことになる。

いつ死んでも構わないと思っていても大泉に首を絞められて死んでから、屍姦までされて発見、では悲惨すぎる。私は本当にいい友達にめぐり会えたな、と遠藤に感謝した。

「とりあえず、これでブレイカーとしての役目は終わったな」

リトが言った。大泉に取り憑いた〝邪〟は無事破壊されたのだ。ということは、流とリトの人間界での役目が一旦終了したことになる……。

そこで突然、リトが昨夜話してくれた能力のことについて思い至った。心の中で問いかけたら流に聞こえないので、私はリトに直接質問した。

「ねぇ、リト。昨日あたしに、リトは人の心を必要な時は操作するって教えてくれたよね? それなら大泉の心を、もっとまともな状態に変えられないの?」

私は期待を込めて聞いてみた。大泉が異常なほど私に興味を示しているのが分かった今、その感情をなんとか別に向けて欲しかったから。リトはちょっと嫌そうな顔で私を見た。

「おお、任せとけ。……と言いたいが、それは無理だ」

「えー。なんで?」

リトはますます心外そうな顔をする。その表情はなんとなく〝この俺様に出来ないことをあからさまに指摘するな〟と言いたそうに見えた。リトは少し顎を上げると、氷のような目で私を見返した。

その様子から今の私の推察が見当違いではないと言うことを覗い知ることが出来た。リトの視線は怖いというより、プライドの高いわがまま小僧が癇癪を起こしてるみたいで、変に可愛く見える。

「俺が人の心を操作出来るのは、星導師に関することだけだ」

渋々、という感じでリトは私に説明する。

「星導師が人間界に降りてきて人々の中で役目を果たすとき、どうしても姿を見られてしまったり、記憶に残ってしまう事態が起きる。俺たちは寿命が長い上に、一定のところまで成長してしまうと見た目に変化が起こらない。会う確率は少ないが、また何かの仕事の時に記憶のある人間に遭ってしまうと都合が悪いだろう。

人間は年取ってるのに、星導師の外見が変わらないことで疑問を持たれるのはこちらとしても不都合だ。それに今回のように役目が終わればいつまでもここにいる必要がなくなる。一度人々に植え付けた高校生としての流の記憶を、すべて回収するのが俺の役目だ。流に関わった人間から流に関する記憶を削除する、という方が分かりやすいか」

へぇ、そうなんだ。結構地味な仕事なんだな。なんか事務的で……公務員みたい。

リトはイラっとした様子で私を見た。流が怪訝な顔でリトを見て私の腰に腕をまわす。私は流にピタッとくっついた。流のオーラがふわりとピンクに染まるのが分かった。

リトは顎に手を当てて、不機嫌極まりないという顔で私に視線を投げる。私はイヤミなんて言ってないもん。──少なくとも、口に出しては。

「……小賢しいな、お前のピュアは」

急にリトからそれだけ言われて、流はちょっと首をかしげた。でも直ぐに気を取り直してリトに言い返す。

「そうなんだ。楽しいだろ?」

「まったくだ」

ふうう、とため息混じりにリトは答えた。一瞬その瞳が、どうする事も出来ない喪失感に襲われたように見えた。リトの心を滑る、そう遠くない未来の回想がその目に浮かんだ気がして、私は申し訳ない気持ちになった。

リトは軽く目を閉じ、すぐに開いて翡翠のような瞳を私に向けた。フン、と一息吐くとまた解説を始める。

「よく考えてみろ。もし俺が人間の心をすべて操作出来たとしたら、この世界は俺の天下になってしまうではないか。そんなことが可能になれば、神もホトケも必要なくなる。だから俺の能力には制約があるんだ」

それもそうか。すべてがリトの思い通りになる世界。本人はさぞや気持ちいいだろうが……私は少し身震いした。

「まぁ、俺がこの世を好きにしたとしたら──」

リトはそう言うと、フッと息を吐きだし物憂げな笑みを浮かべる。

「確実にエロい世界になるだろうな」

堂々と言うなよ。

私が思ったと同時に、リトがプッと吹き出した。それでさっきの悲壮感が薄められた気がした。良かったと思った瞬間、流の左腕がピッと切れた。