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第四十九話

「──!」

三人で息を呑む。赤い血が飛び散る。流は左腕で私を抱いていたので、私の目の前で血が散ったのが見えた。切れたのは上腕部のさらに上の方、肩に近い部分だった。制服のシャツが切れて腕の切れ目から血が流れるのが分かった。でも傷を確認した、と思った瞬間に傷は消えていた。流が自分で自身の傷を治癒したのが分かった。

傷が治ってホッとして……その傷の原因に思い至ってゾッとした。鋭利な刃物で切ったような傷跡は、体育でサッカーをしていた時切れた私の足首の傷と似かよっている。

──多分、そうだ。あの時の傷と同じ。ということはここに〝目〟がいる……?

流とリトに緊張が走る。流は私を抱え込むと、身構えてあたりを見渡す。私も流の腕の間から周りに目を走らせた。生い茂る樫の木が静かに立っている。青々とした常緑樹の葉は夕日を遮り、さっきここへ来た時よりさらに暗さが深くなった気がする。

その音は唐突に耳に届いた。ジャリ……と土と砂を踏む音。三人で音の方を見た。そこには、近藤が立っていた。

体育館裏の焼却炉と、運動部、文化部のそれぞれの部室が並ぶ場所。まんが研究部の部室からは六、七メートルほど離れていた。生徒はみんな家路につき、あたりには昼間の熱気を重たそうに遠ざける秋の夕風が吹いている。

近藤はなんだか目の焦点が合っていなくて、ぼんやりしていた。「近藤……?」と流がつぶやいた。

私を抱えていた手を離すと、今度は私を背中にかばう。それでも流の言葉には、あまり緊迫感がなかった。まるで近藤が偶然この場に居合わせたみたいな……何してるんだ? という感じ。私は流の後ろからじっと近藤を見つめた。

いるはずだ。あいつが。今まで近藤がいるところに現れてきた、あの──〝目〟。

見たい。見つけてやる。私はまた自分の中に焔が燃え上がるのを感じた。段々ぼんやり、近藤の身体の回りを影が渦巻いているのが見えてきた。その黒い影は掃除の時間に見た時より確実に濃くなっている。

近藤の手がブルブル震え出す。首がぐらぐらと揺れだし、ぽかんと開けられた口からは唾液が糸を引いた。目は左右で違う方向を次々と見ている感じ。〝目がまわる〟と呼ばれる実際の様子を観察しているような感覚だった。

ガクリ、と近藤が地面に膝をついた。渦巻く影が近藤の真上に集まって黒い塊になる。その中心に入る一つの線。横に引っ張られた線が徐々に上下に開いていく。そしてついに現れた。海の底と同じ藍い〝目〟が……。

〝目〟は以前より確実に大きくなっていた。じっとこちらを見ている。流が一歩前に出た。「近藤、どうした?」 と声を掛けている。リトも特に止めたりしない。

なんで? 流はなんで近藤に近づこうとするの? しかも心配している。私は流の制服のシャツを掴んだ。あいつがいる……。あの『目』がいるところに近づかないでほしいのに。そこでふと、気がついた。あの影は流には見えない。リトにも。

……私にしか、見えないんだ。

〝バリヤー〟
薫だ。最初の最初からいたのだ、薫は。ここに──。

〝目〟はすがめるようにこちらを見た。藍い美しい瞳なのに、そこにあるのは狂気だった。狂気と……もう一つ。なんだろう? ──分からない。

狂気と同じくらい強い感情。深い藍からにじみ出るもうひとつの思い。私が目を凝らして瞳を見たとき、声が響いた。

「……やっぱり〝炎〟……なのか。ひとの能力を徐々に燃やしつくして効果を消す。厄介な力だよ。でもまだ結合もしてないのに、なぜ能力が──」

その声は軽いノイズが入っているような聞こえ方をした。いつか図書室で聞いた声に似ていたが、あの時よりもっとはっきり聞こえた。だから分かった。その声がまだ声変わりが済んだばかりの、若い男性のものだということが。

「蘭!?」

突然、流の切羽詰った声が轟く。近藤に向かって足を踏み出していた流の背中がいきなり見えなくなった。

「蘭! どこだっ」続けて流が叫ぶ。「リト、蘭の思考」 ブツリ、とそこで流の声が途切れた。私の周りは真っ白だった。

白い世界……。後ろに気配を感じて振り返ると、すぐ目の前に〝目〟があった。私は息を飲んだ。〝目〟は私の顔の五倍くらいの大きさがある。無意識に後ずさりした。でもそこでお腹にグッと力を入れた。

これは薫……。薫のはずだ。それなら私は薫に頼みたいことがある。怖いけど言わなければならない。薫が流を恨んでいるなら、尚更だ。私はカラカラになった口を開いた。

「あなたは──薫?」

「……」

最初〝目〟は答えなかった。すぐ目の前でわやわやと黒い影が渦巻き、その中心の〝目〟は静かに私を見返す。この〝目〟に攻撃されたら、私はひとたまりもない。そう思うと脚が震えて力が入らなくなる。

自分の願いを思い出せ。私が、心から願うことを。
どうか神様、やりきらせてください……!

「……そうだよ。オレは薫だ」

その若い、声変わりが終わって落ち着いたばかりの少年の声は、意外にも律儀に答えてくれた。私は地面をグッと踏みしめた。今周りは真っ白で、自分が踏んでいるのが地面だという確信はないけれど。ついにこの時がきた。覚悟しよう。

私を愛してくれた流のために。奇跡のような愛を教えてくれた、流の為だけに。

「あなたの能力はバリヤー。そうだよね?」

「まあね。だから今、流からあんたは見えない。助けてもらおうったって無駄だからね」

若い声は、喋り方まで幼い。薫は精神が弱いとリトは言ったが、私には幼く感じる。〝弱い〟というより〝幼稚〟という印象。

「近藤に取り憑いてたの?」

「ああ、うん。そう。でもあいつバカだから疲れた。取り憑くなんて初めてだけど、あいつは嫉妬が強いワリに行動力がない。もっとあんたをビビらせたかったのに、ただのイタズラ止まりだよ。でも負の感情はなかなかだった。だからあんたや流に対するあいつの憎悪を喰って力をもらって、リトや流から近藤を隠したり、大泉があんたを襲えるように仕向けたり出来た。

まぁ、あいつの不安定な性格のせいで、こっちも上手く力を出せたり出せなかったりだったのは、イタかったけどね。そうだな……今日の喧嘩は良かったよ。あれのお陰であいつの憎悪は倍増した。それでここまで大きくならせてもらったから」

薫は流暢に私に話す。幼子が自分がしてきた事を誰かに聞いて欲しくてたまらないみたいな感じ。

「──大きくなってどうするの?」

この質問は答えが怖かった。もし私が思っている通りだとしたら……。

薫は一つしかない目を見開いた。小刻みに影が揺れる。楽しくて思わず笑ってしまったように見えた。狂気の現れ。

「そりゃあ、もちらん。流を倒すのさ。オレは流が憎い。あいつがいる限りオレは自由になれないからね」

薫の答えは私の恐れそのものだった。私は自分の顔から血の気が引いたのが分かった。薫は少し面白そうに目を細める。

「自由って?」

問いかける声が怒りと恐れのあまり掠れる。

「……オレはもう、コンプレックスを持ちたくないんだ。惨めになりたくない。あいつはなんだよ。流のやつは! 美しくて、強くて、みんなから愛されてる。日神なんかそれこそ、目に入れても痛くないほど流を可愛がっている。オレのことなんて──どうでもいいんだ……」

そこで一度声が途切れる。黒いモヤが目のまわりで激しく波打った。

「狡いんだよ、あんなに完璧なのは。存在自体が許せない。違反だって、あんなの」

私はため息をついた。日神が流を可愛がるのは当然だとは思わないのか。親なのだから仕方がない。……無理のないことだと。

でも少し、少しだけ気持ちは分かる。私の心は、流から愛されたいと思う普通の女の子のものだ。だから流に嫉妬など微塵も感じない。

でもこれが本当に同性だったら……どう思うだろう。流のような存在は嫉妬のかたまりでしかないのではないか? いるだけでこちらの存在など霞んでしまう。そんな輝かしい人物には、焼きもちを通り越して憧れるか、どこかに消えてくれと願うしか方法はない。

だからといって流を倒したいと思うのは子供の感情だ。流が消えたからといって、薫が日神に……みんなに愛されるとは限らない。薫の言動は自分を顧みず、他人に当たってだだをこねる子供のものだと思う。

やはり薫は幼い──。