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第四十六話

赤い闇が目の前の広がる。

いつもの白い夜の風景は物悲しいけれど、この闇は痛い。赤くて痛い。私は……死ぬの?

死ぬのは怖くないはずだった。こんな命は、なくていい。そう思ってきたのに、今死の瞬間が近づいたと思った途端、後悔に飲み込まれた。私はまだ、流とデートしていない。

手をつないで歩くんだ。それだけでいい。それだけで良かったのに。神様はそれですら叶えるに足る望みではないと……? 

涙が頬を伝った。その時──。

フッと突然、重みが消えた。次の瞬間、ズンッ、ガシャッ「うがっ」という音が一度に重なって聞こえる。

「──殺してやる」

流の低い声。来て……くれた。一気に戻ってきた空気を上手く吸い込むことが出来ず、激しく咳込んだ。音は聞き取れるけど、耳がキーンと鳴っている。やっと身体が動いたので、横に倒れながら喉をおさえた。

なんとか、呼吸が戻った。上半身を起こして膝を抱える。今まで大泉の顔なんか見たくなくてつむっていた目を開けると、流が私と大泉の間に両手を握って、脚を広げて立っていた。全身から、赤いオーラが揺らめいているのが見える。流は怒ると赤い炎みたいになるんだな、と安堵と共に思った。

流は髪をおろしている。すでに解放している、と分かった。手には公園の広場で見た時と同じ、細い剣を持っている。スッと剣を持った両手を上にあげると、一気に振り下ろした。バリンッという、硬いものが割れるみたいな音がした。〝邪〟が壊れた音……?

続けて、また流は両腕を上げた。赤い炎がもっと激しく揺らめく。なんとなく、分かった。流は本気で──大泉を殺そうとしている。

「やめて!」

咄嗟に私は叫んだ。喉が痛くてかすれた声だったけど。今まで慈悲で人を癒やして過ごしてきた流に、人間を殺させたくなかった。しかも私のせいだ。それだけはやめてほしい。

ピタッと腕が止まる。でも、怒りの炎はそのままだ。

大泉は意識を失っていた。部室の長机が倒れて、そこによりかかっている。頭を下げて脚を広げて座っていた。なんと、自分もズボンの前を開けて下げてある。トランクスも下にずらされ、黒い恥毛がはみ出ていた。

やっぱり流に殺してもらおうかな、と思ったくらい。でもそれはどうしても嫌だった。流が私の為に、人を殺すのは。

「星導師が、人を殺すか?」

リトの声が後ろから聞こえた。声の方を振り返ると、リトが部室の開けられたドアを少し入った場所で腕を組んで流を見ていた。

「やった奴は何人もいる」

流の声色は怒りを抑えきれてない。その目は大泉から離れない。赤い炎のオーラも、さっき以上に揺らめいている。

「お前は、一度もない。蘭も止めている。やめておけ。そいつなら裸にひんむいてその辺に転がしておくから」

やっぱり、リトはコワい。そう思ったら話しかけられた。

「すまなかった、蘭。俺はまた大泉を見失った。部活終了後、大泉がこの部屋を出てから教室までは追えたんだが、そこから分からなくなった。まさかここに戻るとは思ってなくて、家の方を探ったりしていた。見当違いだった。面目ない、本当に」

私は首を振った。リトは悪くない。リトは黒い襟付きのシャツを、ボタンを三つ開けて着て、白のジーンズを穿いていた。靴は黒い皮で出来た短いブーツ風のもの。普通のオニイチャンって格好だったけど、やっぱり洗練されていて美しい。聖界の人がうらやましくなる。

流がゆっくり、振り返る。下を向いていたけど、目は合わせて来ない。下ろされた髪が流の綺麗な目を隠している。炎は、大きくなったり、小さくなったりする。葛藤が見える。そして、流は怒っている。──私を。

スッ、と私の前に膝をつく。リトは大泉を連れて行ったらしく、見渡してもいなかった。流はまだ、私と目を合わせようとしない。

「……なぜ、言わなかった?」

いつもは滑らかな声がかすれている。手が震えているのが見える。

「ごめんなさい……」それだけ、言った。

部室の中はコンクリート張りのざらざらした床だ。それが急に手やお尻に感じられた。冷たくて、痛い。下半身はパンツと靴下しか穿いてないし。まぬけで、恥ずかしい格好。

大泉の奴いつの間に脱がしたんだろう。靴もはいていなかった。私は流に申し訳なくてズボンを穿く気力もなくなっている。

流は私の右頬にだけ、片手を当てると下を向いたまま額を私のおでこにつける。ふわり、と暖かさを感じると同時に、喉の痛みが消えた。

「……許せない」

流が低く言う。

「うん……。ごめんなさい」

私の目に涙がにじむ。流がどれほど心配したか……と思うと、なんてことしたんだろう、と後悔した。他にもやり方があったかもしれないのに。

「本当に、勝手なことしてごめんなさい。大泉が嫌がらせの犯人知ってるって言うから……一人で来いって言われて。流もリトも分からない、犯人の名前が聞けると思ったの。許さなくていいよ。あたしのこと……」

涙がポタポタ落ちた。あのまま流が来てくれなかったら、きっと私は今頃──。

「蘭じゃない。自分が、だ。蘭から離れるなんて……。絶対すべきじゃなかった」

やっとこちらを見てくれた。眉根を寄せて瞳が潤んでる。目のふちが赤くなっていた。口は下唇を噛んでいる。仕掛けたのは私なのに、流は自分を責めている。

「あたしが、悪いの。どんなお仕置きでも受けるから……」

流は一度目を伏せてから、ちょっと笑った。

「どうしてほしい?」と聞いてくる。

「全身、洗いたい」

大泉の感触を消したい。今になって、震えがきた。色んなとこ、触られた。口まで〝犯された〟と言う感じがする。気持ち悪い。口をすすいで、身体を全部洗いたい……!

手の甲で口をこすった。あの不快な感触を忘れたくて。涙が──止まらない。

流は私の口をふく手を取った。流の唇が私の唇をふさぐ。大泉の口と間接キスになって、流までけがれてしまうような気がして、思わず後ろに下がった。グッと後頭部を掴まれて、引き寄せられる。甘い味が、くちに広がる。

最初、安堵を感じてそのままされるがままになった。水じゃなくて……流が洗ってくれてるんだ、と思った。水以上に綺麗になる気がする。

全部綺麗にしてほしい。流に全部……。

その後に取った行動は……自分でも信じられなかった。