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第三十八話

菜々美ちゃんはしばらく泣いてから、突然顔を上げた。手にはピンクのハンカチを握りしめている。

「ちょっと、すっきりした」

菜々美ちゃんが言った。私は黙って彼女の涙に濡れた顔を見返した。

「ごめんね、こんなとこ見せちゃって」と笑顔を見せる。

「──つらいなら、無理して笑わなくていいよ」

私は言った。菜々美ちゃんは大きくてもともとパッチリした目をさらに見開くと、急に顔を歪めた。蘭ちゃん……と呟いて、私の左肩に頭を寄せる。

私はちょっと迷ったけど、菜々美ちゃんの細い肩を抱き寄せた。ひとしきり泣いてから、菜々美ちゃんはまた顔を上げた。私は何も言わなかった。

「……やっぱ蘭ちゃんって、いい子だぁ。流くんが好きになるの、わかる」

ドキッとして、身体がこわばった。なんで、菜々美ちゃんが知っているのだろう。そんなにバレバレな態度、とってたかな。──とってるかもしれない……。

私がこわばった顔のまま動けないでいると、菜々美ちゃんは少し笑顔を見せて言った。

「大丈夫だよ。誰も気づいてない。誰かが噂してた訳でもないし。あたしが勝手に気付いたの」

言ってから頬に残った涙をピンクのハンカチで拭う。

「……あたしね、入学した時流くんのこと見て、一目ぼれしちゃったの」

そう言うと、菜々美ちゃんは舌を出して照れたように笑った。

「同じクラスになれて、親しくなろうとしたけど、無理だった。流くんは話しかければ必要最低限のことは言ってくれるし、頼めば何でも手伝ってくれた。でもあたしには一切興味がないって、分かったの」

菜々美ちゃんは上履きの先を手でつまんで、身体を前後に揺らした。

「だから蘭ちゃんが転校してきて、流くんが蘭ちゃんにする態度を見てて、すぐ分かった。流くんは、蘭ちゃんが好きなんだって」

菜々美ちゃんは私を見る。

「蘭ちゃんも、流くんが好きでしょ?」

私は迷った。何言ってんだよ! ぼくは男だよぉ、と言おうとも思ったけど、今この時の菜々美ちゃんに嘘をつくのが嫌だった。だから、こくんと頷いた。多分、顔を赤くして。菜々美ちゃんはふふっと笑った。とても可愛い笑顔だった。

「いいじゃない。同性でもなんでも。そこにホントの〝好き〟があればいいと思う。なくて付き合ってるのより、ずっと、いい」

一言ずつ、噛みしめるように菜々美ちゃんは言った。

「付き合うのって思ったより、難しいね。あたし、最初そんなによく考えなかったの。嫌になったら別れようって言えば、それで終わりになると思ってた。馬鹿だね、あたし」

菜々美ちゃんの顔に苦悩の表情が浮かんだ。

「近藤に──何かされたの?」

ずばり、訊いてみた。私は以前、近藤が菜々美ちゃんの胸を掴んだのを見ている。あの勢いで近藤が菜々美ちゃんに何かしたとしたら……。

「最後までは……させてない」

言ってる菜々美ちゃんの目から、また涙がにじむ。

「いやだって言って、頑張って抵抗したんだけど、すごい力で抑えられて……。お前はオレの女なんだから好きにさせろって言うの。女の子はああいう時、不利だよね」

涙が菜々美ちゃんの頬をつたう。

「いれ……られそうになった時、泣いちゃったの、あたし。どうしても、嫌で、嫌で。おかしいよね。一樹のこと好きになった、と思ったから付き合ったはずなのに……」

結局、見た目だけだったんだよね、と菜々美ちゃんは囁いた。私は菜々美ちゃんの肩を抱く手に少し力を入れて言った。

「菜々美ちゃんはきちんと、考えてるよ。その時、その時に出した一番の答えを、自分で見極めて行動してる。……近藤のことは──運が悪かったんだと思う。こんなことしか言えなくて悪いけど……」

一体どこの人間が、最初からベストな答えを見つけられるんだろう。私も最初近藤を見た時カッコイイな、と思った。不安定そうなのはすぐ見抜けたけど、近藤だって菜々美ちゃんに初めは優しくしたはずだ。

いつから、それが狂ってしまったのだろう。いくら付き合っていても、お互いはお互いの所有物ではない。好きに何でも出来ると思ったら、大間違いだ。菜々美ちゃんはまた膝に顔を埋めて、首を振った。

「つらかったね……」それしか言えなかった。

「つらいのは、身体の事だけじゃないんだ。一番嫌なのは、どんなに言っても一樹はあたしと別れることを認めてくれない。そのことなの」

菜々美ちゃんは顔を上げると遠い目をした。

「一樹は元々すごく周りを気にするタイプなの。あいつはオレよりモテるけどダサいとか、あいつよりオレの方が足が速いとか、いっつもそんな話ばかり。あたしは段々疲れちゃって……。

一樹は特に流くんのこと、変にライバル視してる。その上、転校生の蘭ちゃんが運動神経抜群で女の子に人気出たから、最近余計、機嫌が悪くて……。悔しいならもっと自分が頑張れば? って言ったら……顔、たたかれて」

菜々美ちゃんは右手を自分の右頬に当てた。可愛い顔が一瞬だけ、一日中立ちっぱなしで仕事をしていた中年女性のように、疲れて見えた。

「だから、あたしはもう別れたいって伝えたの。あたしは……別れたつもりでいたんだ。でも一樹は当たり前みたいにあたしの家に来る。帰ってほしくても、なんだか怖くて言えなくて……」

菜々美ちゃんの顔色が青ざめる。本当に怖がっているのが分かる。私は菜々美ちゃんの肩を、今度はグッと強く抱いた。

「二人の事に首突っ込むのは良くないかもしれないけど……ぼくで良かったら、ちからになるよ」

菜々美ちゃんは私を見た。唇が震える。涙がボロボロ落ちた。そのまま私の肩に寄り掛かった。──その時

「何してんだよッ!」という声と共に、制服の右肩を引っ張り上げられた。身体がよろける。近藤が怒りに震えてこちらを見ていた。

自分で引っ張り上げた私ではなく、菜々美ちゃんの方を。