HV

第三十七話

翌日は、軽い頭痛と共に目が覚めた。

昨日の事を思い出すと、ほんとにあった出来事なのか信じられなかった。自分の唇に手を当ててみる。そして、私は思い出した。ちゃんと、私の唇は流を記憶している。しかもかなり貪欲に……。

ふいに流の甘い吐息と甘い味、なめらかな舌の感触がよみがえる。急に一人で恥ずかしくなって、自分の膝に顔を埋めた。

でも登校の時間が迫ってる。お風呂にも入ってないし、やることはいっぱいあった。バタバタと朝の準備をする。兄はまだ寝ていたので朝食用にサンドイッチだけ作って、時間ギリギリで家を出た。

もちろん、流は待っていた。顔を合わせるのが嬉しくて、たまらなく恥ずかしい。

「少しでも眠れた?」といきなり訊かれた。「うん」とだけ答えた。自分の頬が赤く染まっているのが分かる。

「気分が悪くなったら、すぐに言うんだよ」といつも通り気遣わしげにいう。こくん、と首だけ振って、答える。なにか言いたかったけど、胸がいっぱいで言葉は何も浮かんでこない。流は周りを確認すると、私の頬を手で包んだ。

「……ちゃんと、ぼくの夢をみた?」と囁いてくる。私の心臓は狂ったように跳ねていて、押さえてないと飛び出てきそう。もう、朝からこんなのやりすぎだもん。自分の男子の制服がうらめしい。これがスカートなら、進展したカレシ、カノジョに見えるのかな……。

「ひみつ」

言って私は、流の両手に自分の両手を掛けて、ちょっと広げた。流は少し真顔になると、ニッと笑って「言わないと離さない」と手に力を入れる。私は流の両手の中で、首だけ回して、流の右手のひらにキスした。一瞬手の力が弱まったので、急いでその素敵な牢獄から逃げ出した。

走って逃げたのに、天使からは逃げられない。今度は背中から両腕で、一気に引き寄せられ、抱き抱えられる。頭がクラクラする。もぉ、触り屋遠藤より性質(たち)がワルいんだから……!

「ちゃんと教えてくれないなら、このまま空にさらっていくよ」

優しい声だけど、そこにあった〝本気〟は聞き取れた。私は、ため息をついて降参した。流にはどう頑張ったって、勝てるわけがない。私は昨日の夢を思い出した。だから言った。

「昨日の夢ね……いま、現実になってる」

それだけで流は分かってくれた。一度ギュウッと腕に力を入れると、ようやく私を離してくれた。



十月を間近に控えた九月の空は、少し霞んだ青だった。刷毛で掃いたような薄い雲がかかっていて、空気はかなり涼しさを増している。この空に流の住む聖界があるなんて、流が隣にいなかったら、きっと思い描くこともしないだろう。私が空から目を離さずにいると「とても綺麗な場所だよ」と流が言う。

「蘭の部屋は、もうあるよ。千年も前から、持ち主を待ちわびてる」

驚いて流を見た。私を見るその瞳は真っ直ぐで澄んでいる。サラサラの黒髪が爽やかな風に煽られてふわりと舞い上がる。流は千年も出会うべきピュアを探して来たのだ。
私は流に微笑み返した。

そしてまた空を見上げて、決して見ることのない、自分の部屋に想いを馳せた──



学校はいつも通りのざわめきの中、時を進めていった。

なぜか、今日は嫌がらせがなかった。転校してすぐからずっと色々やられてきたので、何もない日がかえって〝いつも〟を感じさせてくれなかった。授業中でも流の隣にいると、とてつもない安心感と、お尻がむずむずするような引力と、柔らかく輝く光を感じていた。

流と瞳が合うと流の事以外を考えられなくなる気がして、なるべく視線を合わせなかった。ときどき流は不安になるのか、机の下から私の手をキュッと握った。私も必ず握り返した。心をこめて。そうすると不思議と流には伝わるらしく、安堵のため息をつく。

こんな私に日神の息子で、聖界でもかなりの力を持つはずの流が、焦ったり、心配したり、私の態度で安心したりするのが、不思議でならなかった。本当に、私にそんな価値があるのかな……。

掃除の時間になったので、私は今週の担当の場所である、二階から三階につながる階段に来た。黒いブラシの付いた掃除道具は埃の塊と、細かいごみが絡まっていて掃きにくい。

階段の角にぶつけて、少しでもごみが落ちないかとガンガンやっていたら、三階の踊り場の方から押し殺すような声が聞こえてきた。

──泣いている、ように聞こえる。

なんだか見に行くのも失礼かな、と思ったけど、もし怪我とかしていたら大変だし、ちょっとだけ確認することにした。階段の手すりからそっと覗いてみると、菜々美ちゃんが一人で、階段に座って膝の上に頭を乗せているのが見える。

ひっく、という息を吸い込む音に合わせて、肩が震える。私はゆっくり近づいた。菜々美ちゃんは一瞬、ビクッとしてこちらを見たけど、私だと分かるとまた膝に顔を埋めた。

私は菜々美ちゃんの隣に腰をおろして、掃除道具をわきに置いた。そして一緒に膝を抱えて、黙って隣にいた。