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第三十四話
少し落ち着いたところで、流は静かに問いかけた。
「ひとつ……訊いてもいい?」
私はなんとかハンカチを取り出して、ぐちゃぐちゃに濡れた顔を拭いた。ひどい顔してるだろうな……と思いながら、うん、とまた頷いた。
「蘭の──本当の気持ちが知りたい。ぼくのことを……どう思っているのか」
そんなこと、言わなくても分かるでしょ? と思ったけど、違う、と気付いた。流は緊張して、身体を少し硬くしている。
本当の気持ちは、言葉に出して伝えなければならないのだ、とやっとわかった。わかってんだろ? と言うのは、もしかしたら究極のエゴイズムかもしれない。
言葉は、生きている。口にしただけで命を持つ。だからこそ慎重に考えて言わなきゃならないし、本当に思ってることは自分の口ではっきり言わなければ、伝わらない。そう、思った。
だから、これだけは本当の事を伝えなくては──。流を喜ばせたいから、とか、安心させたいから、とかではなく、本当の、こころから感じている私の……本心を。
私はさすがに恥ずかしくて、顔を見て言う勇気はなかった。だから流の鎖骨の下に、自分のおでこを当てて、寄り掛かった。
「……大好き……」
流の腕がギュッと緊張する。
「流のことが、大好き」
ちゃんと、言えた。
流が息をそっとはいた。一瞬力が抜ける。そして次の瞬間、一気に強く抱きしめられた。私も思い切って腕を流の身体にまわした。
ここに、この胸に、やわらかな二つのかたまりがあって、それが相手の胸にあたったら、きっと男の人は震えあがるほど嬉しくて、その娘を守りたくなるんだろうな、と思う。
小さくて、弱い、女の子。かわいい菜々美ちゃんや瑠璃ちゃんのようだったら、どんなに良かったか。
ごめんね、と心の中で謝った。
こんな私で、ごめんなさい。ごめんなさい……。
流は私の両頬にもう一度、手を当てた。額を私の額に当てる。こうされると、とても安心する。何回か流は私にそうしてきたけど、今回は続きがあった。
流は愛おしそうに、私に額を擦り付けた。前髪が擦れて、シャリシャリ鳴る。そしてそっと額を離す。流の瞳が信じられないくらいやさしく、甘くなる。流の顔が傾く。私は流がどうしたいのかわかったので、ゆっくり目を閉じた。
流の唇が、私の唇にかさなった。最初、少しだけ優しく唇を押しつけてから、そっと離す。流の右手の人差指が私の唇をなぞる。唇に全神経が集まる。ゆるく触れる指の感触に、熱い電流が全身に流れる。脚の力が抜けそう。
流はまた、私の頬を両手で包む。いつもよりずっと強く甘い吐息をかげるのは、流の顔がすぐ近くにあるから。私は目を閉じたままその甘いかおりが欲しくて、口を少し開く。そこを今度は深く口づけられた。
体中がとろけるような、甘い味がする。人口の甘味料ではなく、採りたての野菜や果物を口にした時に感動を覚える甘さ。
辺りがほわりと暖かくなるのが分かった。目を閉じていても光っているのが分かる。流は私から唇を離す。名残惜しそうに、私の唇の周りを流の唇がさまよう。また優しく唇を重ねてから、ゆっくりと離した。そして流はもう一度、私のおでこに額を当てる。
その時、カラコロ……というとても綺麗で密やかな音が聞こえた。澄んでいて、世界全体に広がっているようなのに、同時にとても小さくてひそかな音。何の音だろう。すごくきれい。
「月の音色が響いてる。ぼく達を祝福してるんだ」
囁くように、流が教えてくれた。月に音色があるなんて、信じられなかった。でもその音はこころの奥深くまで沁み渡り、今の私の真の恐れを、そっと隠して勇気をくれた。
流は私の両腕の下に腕をまわすと、持ち上げるように私を抱いた。すぐ近くで、流の瞳が私を真っ直ぐ見つめる。私も見つめ返し、微笑んだ。
どうか神様、流のお父さんである、日神さま、そして他の神様も、父祖も……。流を幸せにしてください。お願いします。流に、本当の幸せを与えてあげてください。
本物の……流が〝完全になれる〟幸せを。
流は私の背中を抱き寄せた。私は流の首に腕をまわして、この儚い、幸せな夢を、涙と共に抱きしめた──。