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第十八話

あの時確か本の隙間から近藤が見えたような気がしたけど……。確認の為、周りを見渡しても近藤らしき人物はいなかった。茶髪の人もいない。

頭に手をやるとこぶが出来ていた。痛いけどこの程度で済んで良かった。もし流が助けてくれなかったら……今頃救急車に乗っているかも。

「楠本。しゃがんでみなよ。おれが頭見てやるよ」

大泉がすぐ近くで私に言った。大泉より私の方が少しだけ背が高いから、確かにしゃがまないと大泉には私の頭の上は見えない。

「大泉。それならぼくが確認するから大丈夫だよ」

流が冷静な声で大泉に向かって言った。大泉は流と私を見比べた。流は私より頭一つ分は大きい。この申し出は正当なもので、大泉は逆らえなかった。

「あ、そう。じゃあよろしく」

大泉はしばらく黙ってから流を睨みつけて言った。まるで私のことを世話するのは大泉の権限であるのに、譲ってやるみたいな言い方だった。

「さ、見せて」

流の言葉に、私は軽く下を向いて頭を流に向けた。流の指が私の髪をかき分ける。

「少し赤くなって腫れてるけど、出血はしていない。気持ち悪かったり、吐き気がしたりはしないかい?」

「全然へーき」

流に心配を掛けたくなくて、痛かったけど我慢して言った。集まった生徒たちは、ザワザワしながらそれぞれ離れていったのに、大泉だけは居残って私たちを見ている。流の指先がそっとこぶに触れた。それだけで痛みがフッと軽くなったのが分かった。

「多分、二、三日後にはきれいになってるよ」

「うん。ありがとう」

流はきっとマホウツカイなんだ、と思うことにした。なぜはみんなには見えない血糊が見えるのか、そして流が触れると何故消えるのか……、私は流に何度も聞こうと思った。

でもそれを聞いてしまうと、流がいなくなってしまうような気がして、私はいつもためらう。いつの日か真実が分かる時が来るかもしれない。その時までは夢を見よう。私には夢を見るくらいしか希望がないのだから。

その後、さっきの女の先生が教務主任やら教頭先生やらを連れてきて、一応現場検証のようなことを行った。私と流は一通り、本棚が倒れた時の状況を聞かれた。

教師陣はなんとか私たちのいたずらの線を優勢にしようとした。でも私のタンコブのお陰で、私たちがふざけていて本棚に激突して倒れたわけではないと分かってもらえた。

例え激突したとしても、あの重い本棚が簡単に倒れるとは思えない。それでも事なかれ主義の大人事情というやつで、事故の原因が本棚の固定工事の失敗かもしれないとは言いにくいのだろう。生徒の悪ふざけで倒れたとする方が保護者に対する説明がしやすい。

こっちは明らかに被害者なのに、しつこく疑われたので教師不信に陥りそう。結局倒れた原因は不明ということになった。私たちは先生からろくな謝罪もないまま、やっと無罪放免された。

イタズラだったのか、あの騒ぎで出るに出られなくなったのか……私を呼び出したはずの女の子も最後まで現れなかった。考えたくもないけど最初から本の下敷きにするつもりで、誰かが手紙を使って呼び出した可能性もある。そう思うと怖い。

でもこの程度の怪我で済んだのは幸運だったと思うことにした。あまり暗く考えすぎると、また学校に行けなくなってしまいそうだから。



何の答も見いだせないまま、日々は過ぎていく。

私はみんなに心配してもらいながらも段々学校のスケジュールのペースをつかんで、慣れていくことが出来た。近藤は、今では私たちのグループに近寄ろうともしなくなっていた。

その日は暑い日で〝本日の嫌がらせ〟は持参した水筒の麦茶を全部捨てられたことだった。日中はそれだけだったので、ちょっと油断していた。いつも通り流と一緒に帰ろうと思って、靴箱から外靴を出すと、中にぎっしり泥が詰められていた。

一体誰にも見られずに、どうやってこんなことが出来るんだろう。流は私の外靴の泥を全部出してくれた。ザッと水で流したけど、汚れが取れないと分かると、あろうことか自分の靴を出して、これを履いて帰って、と言ってきた。自分は裸足で帰るからいい、と。

「大丈夫だよ。靴下と靴は帰ってすぐ洗うから」と言って私は急いで靴を履いた。靴の中は湿っていてざらざらする。流を見ると、口をへの字に曲げて不満げだ。厚意を無にしてしまったことを後悔して、流を見上げた。

きっと私は、よっぽど情けない顔をしていたのだろう。流は自分も靴を履いて隣に来ると、そっと私の肩に手をまわした。

触り屋遠藤の影響で、流は時々、私に触れるようになっていた。遠藤は大抵不意打ちで襲ってくるが、流はいつも私の表情を確認してから特に落ち込んでいる時、肩を抱いてくる。

いつもは慰めるようにグッと肩を掴んでから、残念なくらいすぐ離すのに、この時は違った。昇降口には私たち以外、人気はなかった。

流は私を抱いている左腕に力を入れて、自分の胸元に引き寄せる。そして私の頭に左の頬を乗せてから「自分がどうしようもない役立たずみたいで頭に来る」と吐き捨てるように言った。

流の息が額にかかる。甘くてさわやかな香りがした。私は心の中で、離れなきゃダメ! と叫んだ。この腕のぬくもりを憶えてしまうのが怖い。

いつか失う。必ず失ってしまうのに……。

でも足は動いてくれなかった。軽いジョークでかわすことすら、頭が働いてくれない。ただ溢れてくる涙をこらえて、ゆるゆると首を左右に振ることしか出来なかった。

流の右手の指先が、私の左の頬に軽く触れる。私は流を見上げた。流のライトブラウンの澄んだ瞳が、私の視線を絡め取る。お互いが引き合うように近づいた。その時また、ほわりとした光に包まれた。

気のせいじゃない、と思った時、ふいに流が身体を離した。同時に光も地中に吸い込まれるように地面に降りて、拡散した。

ハッと見ると流は私に背中を見せ、右腕で庇うように自分の後ろに追いやっていた。背中が緊張で張り詰めているのが分かる。流の視線の先を覗いてみると、そこにいたのは大泉だった。