第十九話

「話が、あるんだ」と大泉は言った。「何だよ」と流が返す。大泉はビクビクしながらも何とか流をにらみ返すと「お宅じゃなくて楠本に、だよ」と言った。

「ここで話せよ」流は言うと、ますます私を後ろに隠した。大泉は顔を赤黒く染め、怒りを込めて言い返す。

「二人で話したいんだ。いいだろ、別に」

かなり強気だ。この迫力の流とやりあうとは……よほど大事な話なのかも。

「それならそっちに行くよ」

私は言った。流は険しい表情で私を振り返る。私は少し笑って見せるとポンポンと流の腰辺りを軽く叩いた。落ち着かせるつもりだったけど、その引き締まった筋肉に驚嘆してこっちの心臓がドキドキしてしまった。ちゃんと治まってよ、心臓くん、と思いながら大泉のいる場所まで行った。

「なに?」とちょっと離れて訊いた。大泉は尻尾を振る犬みたいに私にまとわりついてきた。

「こっちに来てよ」

大泉は、流から少しでも遠ざけようと私の腕を引っ張る。むあっと汗の臭いがした。ツンとくるような変な臭いもする。今まで嗅いだことのない臭い……。

「……嫌がらせの犯人、俺知ってるんだ」

大泉が囁いた。口が近づくとまた新たな臭いが加わる。私は驚愕し、大泉の言葉と臭いに軽い吐き気を催した。

「どういうこと? 誰?」驚いて私は訊いた。「しーっ」と大泉は口に指を当てる。

「まだ……ここでは言えない。もうちょっとちゃんと確認したいから。悪いけど明日の放課後、うちの部室に来てくれないかな? 部活の後だから六時くらいになっちゃうけど」

そこまで言うと大泉はチラッと流を振り返る。

「もちろん、一人で、だよ。そうじゃないと教えられない」

言って、媚びるようににたりと笑う。

一人で──。

大泉と二人きりになるなんて虫唾が走る。でも、犯人は知りたい。自分にもストレスだけど、それ以上にみんなに……流に心配かけるのが嫌だった。何故こんなことをするのか直接犯人に訊いてみたい。私の何が──悪いのか。

「わかった。行くよ」私は言った。大泉は手もみしそうな勢いでいそいそと私にすり寄る。「ちゃんと一人で来てよ。絶対だよ」と言うと私の腕をギュッと握って、私の後ろに視線を移すと怯えたようにパッと離した。見なくても、殺せそうな眼力で流が睨んでいるのが分かる。

大泉がにやにや笑ってしつこく振り返りながら離れて行くのを、胃がグルグルするような思いで見つめた。早く流の所に戻りたい。でも絶対、流は話の内容を訊いてくる。

なんと言ってごまかそうか考えていたら、そっと肩を掴まれた。流は私を自分の方に向かせると、両肩に手を置いて見下ろしてきた。

「どうした?なんて言われたんだ?」と案の定、訊いてくる。

「……あ、えっとね、大した事じゃなかった。大泉くんもぼくへの嫌がらせの事心配してくれて……、なんでも手伝うから、何かあったら言ってくれって」

こんなの、信じるかな。

流は黙って眉根を寄せた。しばらくして「──そうか……」と言って納得した、……様に見えた。流はまだ硬い表情のままだったけど、何か思いついた、という感じで顔を上げた。

「とりあえず、早く帰ろう。足、気持ち悪いだろ?」

流に言われて靴が汚れているのを思い出す。段々濡れた感触に慣れて足の不快感も薄くなっていた。流に促されて、私は玄関の出口へ向かった。



昇降口から外に出ると夕日が斜めから差してくる。九月の終わりの夕方の太陽は、まだ夏にしがみつこうと躍起になっているように、暑さを振りまいていた。草花はそのいわれのない拷問に黙って耐えて、夜が来るのを待っている。

でも夜になると太陽の手からまんまとすり抜けた秋の気配が、暑さに耐えた草花から精気を吸い取っていくのだ。雑草は緑から茶色に変わり、確実に秋がここにいることを感じさせる。



校門からの長い下り坂をゆっくり流と一緒に歩く。流はいつも静かに、押しつけがましくなく私が好きなことや、前の学校の話などを訊いた。

中学から始めた高跳びで、私は背面跳びが得意だったが、一度だけベリーロールに挑戦したことがある。高跳びは踏み切りのタイミングがむずかしい。背面跳びは空を見上げて反り返りながらバーを越えるのだけど、ベリーロールは地面を見たまま下向きの状態でバーを飛び越す。

そのベリーロールを初めてやってみた時、顔からマットに突っ込んでしまい、鼻血を出してしまった。その時の話をしたら、流は大爆笑した。いつまでもウケているので、そんなに笑う? とちょっとむくれて流を見上げた。

流は少し申し訳なさそうな顔で微笑んで、右手の人差指で私の鼻先にそっと触れた。そして「怪我にだけは気をつけて」と滑らかな声で言った。流に触れられるだけでくらりとめまいがする。

その優しい声と甘い瞳を見上げて、私は流の虜になっていることが、自分で苦しいほど分かった。

どうしよう、とその度に思う。いつか、打ち消す事が出来るのだろうか……。この──想いを。

普段何気ない話の中で、私が以前女の子として生活していた事の関わりから、つい言いにくくて言葉がつかえてしまう事が何度かあった。そんな時流は、さりげなく話題を他にかえてくれる。

流は分かれ際に必ず、私の頭に手を置いて髪をくしゃくしゃにした。私が髪型を崩されたことに口を尖らすと、イタズラっ子みたいな笑顔を見せる。そして手を離すと「じゃあ、また明日」と言ってその手を挙げて、家へ帰っていく。お腹に響く声を、私の耳と心に残して。

休日を挟んで学校が始まるのを待つ時に、流に会えない寂しさから自分で自分の髪をくしゃくしゃにしてみた。でも余計むなしくなって一回でやめた。

外に出ると流の姿を探して、挙動不審になってしまうと分かっていたので、土日はなるべく部屋から出ないで過ごした。読みあきた雑誌や本を、頭に入らないまま見ながら耐えるしかなかった。

今日の別れ際の流は違った。私の頭に右手を乗せたまま、じっとして私を見つめた。私はぼうっと流を見返した。なんだか色々あって疲れていた。

流は真剣な瞳で真っ直ぐ私を見たまま、「絶対に無茶しないって約束して」と言った。すべてを見透かされてるようで、不意に不安になった。

私は大泉に一人で話を聞いて、犯人がわかったら、やっぱり一人でそいつと話そうと思っていた。犯人が何を気に食わないにせよ、それが、私が男として生きている事の間違いから来ているのだとしたら、私はそれを聞いて自分を正したかった。

男になると決めたのだから、男になるしかない。流や他の友達が教えてくれない事実を、そいつが教えてくれるかもしれない。

私は流を真っ直ぐ見返し「大丈夫だよ」と言った。流は目を細めて、見極められない真実にたどり着こうとした。私は目をそらさなかった。

流は目を閉じて少し笑うと、いつも通り髪をくしゃくしゃにして、帰って行った。