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第十七話

「待ってるのが可愛い子だったら一度付き合ってみようかな」

図書室に向かいがてら、ふざけて流に言ってみた。流は一緒に歩いていたのに、急に廊下に立ち止まった。振り返ると、眉根を寄せて口をキュッとつぐんでいる。

怒ってる? と一瞬思ったけど、そうじゃないみたい。どちらかというと〝ものすごく困ってる〟……かも。

「──えっと、冗談なんだけど……」

流が何か言うのを待とうかな、とも思ったけど、その時の流はお母さんに置いてきぼりにされた子供みたいな表情をしていたから、つい自分から打ち消してしまった。流は一つため息をつくといつもの柔らかな表情に戻る。そのまま、また歩き始めた。

「心臓に悪い冗談はやめてほしい」

私を少し追い越して、ぼそりと流がつぶやいた言葉に今度は私が立ち止まりそうになった。でもすでに図書室にたどりついていて、流は先に入って行ってしまう。

私が中に入ると流は書棚の奥に入っていくところだった。呼び出されたのは 辞書の置いてある本棚の前。流が入って行ったのとは反対の方角だ。私は辞書コーナーに向かって歩いた。

行ってみると、特に人の姿は見えなかった。まだ来てないのか、からかわれただけなのか、とりあえず少し待ってみることにした。

図書室の書棚は木製で二メートルほどの高さがある。幅は六、七十センチくらいはあるだろうか。私の部屋にあるような安っぽいカラーボックス製ではなく、厚みのある板で出来ていて本棚そのものも相当重そうだ。棚は縦半分に仕切られていて、本は開く側を向い合せに仕舞われている。

反対側でも、もちろん本を探せる。縦半分の仕切りは本同士が触れ合わないように低いストッパーがあるだけで、こちら側から本を探していると、反対側でも探している人が見えるような構造だ。何気なく本の背表紙に目を走らせていると本越しの向かい側で人が動いているように見えた。

──あれ? さっきは誰もいなかったと思ったのに……。向かい側は図書室の一番奥だ。私のいる場所を通り過ぎないと奥には入れない。知らない間に通ったのかな……。

そう思ってまた人影に目を向けた。私の視線から本の隙間を抜けて見えるのはシャツの襟と首の部分。私より背が高く、のど仏が見えるから男性だ。首元から茶色い髪の毛が見える。襟元にかかる少し長めの茶髪に見覚えがある。

──近藤……?

ふいに見えていた人物が消えて、黒く幕がかかったようになった。向かいの人が動いたと思ったけど、そうじゃない。動いて私の視界からどいたなら、一番奥の本棚が隙間から見えるはずだ。

幕、なのかな? なんだかもやもやして見える……。私は良く見ようと目を凝らした。黒い幕に細い横筋が入る。それが突然パッと見開いた。

そこにあったのは、〝目〟だ。並ぶ本の上の隙間から、こちらを覗く目は私を凝視している。藍(あお)い目。──海の底の。

私は息をのんで一歩下がった。その時その目がしゃべった。

(……キカナイ)

ノイズの入った電話で話す声を聞いているようだった。目がしゃべるなんて常識ではありえない。でも確かに、聞こえた。きかない?

聞かない──違う。効かない……?

それは音もなく降ってきた。一番高い所にあった本が一度に私に向かって落ちてくる。本棚がこちら側に倒れてきていた。よける間もなく、ゴッと重たい辞書が頭にあたる。

痛みより衝撃で目を閉じて頭を下げた。ドドドッと重苦しい音を立てて辞書がたくさん床に落ちる。なのに最初の一冊以外私には当たらなかった。

「イテッ」

その言葉を言ったのは私じゃなかった。私はその時すでに誰かの腕の中に抱きとめられていた。私に覆いかぶさるようにして抱き寄せたのは流だ。

頭に本が当たって、目の前にチカチカ光るものが飛び散った気がした瞬間、硬くて柔らかいものが私を覆った。それが人間の身体で、最近では嗅ぎ慣れてきた爽やかな香りがしたから流だと分かった。

でもイテッと言ったのは流じゃない。もっと離れた場所から聞こえたから。本はそれ以上落ちてこない。私は流の腕から少しだけ顔を出して横を見た。本棚は斜めになったまま止まっている。私の後ろにあるもう一つの本棚に引っ掛かっているのかと思ったけど、それならもっと斜めにかしぐはずだ。

「クソ! 早く抜けろっ」

イテッの声と同じ人が言った。でもどこで言っているのか分からない。流は私のわきの下に腕を回して軽く抱き上げると、傾いた本棚の下から一気に大きい通路に抜け出した。

振り返ると、本棚が何にも引っ掛からずに斜めになっているのが見えた。それがゆっくりと傾いていく。まるで誰かが必死で押さえていたのに、段々に耐えきれなくなって倒れていく様に見えた。

流が本棚に手を掛ける。なんとなく、斜めにかしいだ本棚の下が他よりほんのりと明るく、光っているように見えた。その光は……人型をしている?

フッと光が消えると、流が本棚から手を離した。本棚は、今度は勢いをつけてすぐ横の書棚にガツンと当たって止まった。棚に残っていた本が下に向かって滑り落ちていく。間もなく、ほとんどの本が床に落ちた。あの本の中に埋もれてしまったら、ヘタすると死んでいたかもしれない。

「うわっ。なんだ、これ」

ネトッとした声が聞こえた。声の方を見ると、大泉がすぐそばまで来ている。図書室にはそれほど人はいなかったけど、ものすごい音がしたせいで、みんながこちらに集まり始めていた。

「蘭。大丈夫か? 怪我は?」

流が私に問いかけた。普段は落ち着いている声が今は焦り気味だ。大泉から目を離して、私は流を見上げた。

「う、うん。平気。頭に本が当たったからちょっと痛いけど。流こそ大丈夫?」

「大丈夫だよ」

私をかばった流にはそうとうの数の本が当たったはずだ。でもどこからも血を流してはいない。打撲はあるかもしれないけど、見た目はいつもと全く同じで優雅だった。

「ありがと。かばってくれて」

そう言って床に落ちた本を見た。改めてその多さにゾッとした。

「いや。間に合わなくて蘭に本が当たってしまった。もっと近くにいれば良かったのに」

流は本気で悔しそうに言う。

「げー。なんで倒れるかな。本棚は床に固定されてるはずだぞ」

大泉が驚きの声を上げた。大泉は最初私たちのやり取りをじっと見つめていたけど、間もなく倒れた本棚の方に興味を持ったようだった。山積みになった辞書の周りをウロウロしていたと思ったら、今度は棚の根元部分を見ている。

「あなたたち大丈夫?」

集まった数人の生徒たちをかき分けて、中年の女性教師が近くまで来た。私は一度も接したことのない先生だ。

「まぁ、なんで倒れたのかしら。この前ビスで固定したばかりなのよ」

先生はとりあえず怪我人らしき生徒がいないと判断したのか、倒れた本棚に目をやった。

「震災があった後、本棚を全部床にくっつける工事をしたんだ。おれはよく部活で資料を探しに図書室に来るから、工事の間使えなくて不便だったよ」

大泉が私のとなりにピタッとくっついて解説してくれる。有難いけど離れてほしい。

「この本棚の近くにいたのはあなた?」

「あ、はい」

先生が私に向かって言ったので返事をした。「ぼくもいました」すかさず流が言う。

「なんで倒れたか原因は分かる? まさか、ケンカして暴れたとか?」

思春期の若者など、何をしでかすか分からないという表情で先生は私と流を見た。

「いえ、わかりません。ぼくたちは倒れてきた本棚の下にいたんです。突然本が降ってきたので急いで抜け出しました」

流が簡潔に伝えると、先生は目を見開いた。

「そうだったの。怪我がなくて良かったわ。それにしても何で倒れたのかしらねぇ」

先生はしばし本棚を見つめてから、「他の先生に伝えてくるわ。あなたたちはまだここにいてくれる?」と言ってこの場を去った。

なんで倒れたのか……。原因はあいつとしか思えない。あの──〝目〟。