HV2

第八話

何が首を長くして、だ。あんな奴と毎日会わなければならないなんて……想像しただけで虫唾が走る。

力が抜けてズルズルと黒板の下に座りこんだ。あの梗とかいう軟派男がちゃんと去ったかどうか出入り口まで確認に行ったマサが、私の前に戻ってきた。

「大丈夫か?」私に視線を合わせるために自分もしゃがんでマサが言った。私はうん、と頷いた。

「本当に何もされてないんだな?」

「なんとか……。あいつ、ぼくのこと女だって決めつけて迫ってきたんだ」

悔しくて下唇を噛んだ。手の甲で頬に残った涙をぬぐう。

「……蘭も見た目で苦労するな」

マサの口調に少し驚いて顔を上げた。同情が込められた言い方だった。

「マサも苦労したことがあるの?」

「ああ。昔から飛び抜けてデカかったからな。強そう、ただそれだけの理由で喧嘩を吹っ掛けられたことが何度もある」

男の世界の理不尽さに呆れて私はため息をついた。男って馬鹿じゃないの。

「まあ、いっぺんも負けたことないけどな」

ニッと笑ってマサが言った。細くて眠そうな目がますます細くなる。あまり感情を出さないマサだが笑った顔は仏様みたいだ。

「ボコボコのメタメタのぐっちゃぐちゃにしてやれよ、そんな奴ら。ぼくが許す」

私が言うと、マサはハハッと笑って立ちあがった。私もなんとか立ちあがる。大分力も戻ってきた。

「ごめん、また部活にちゃんと出られなかった。こんなヘタレ部員、いるだけ迷惑だよね」

落ち込んで私が言うと、マサは眠そうな目で私に視線を下ろした。私から見ると聳え立つ大仏のよう。

「蘭の身体が弱いのは、蘭のせいじゃない。俺は横並びが嫌いだ。人には個性がある。お前は自分の出来る範囲でせいいっぱい頑張っている。フェアな条件じゃない中で頑張っている奴はすごいと思う。だから気にしなくていい」

相変わらず、マサの言葉は断定的でハッキリしている。長身で口数が少ないから、怖がられたり、遠巻きにされたりするけど、物事をよく見て公正に判断できる奴だと思う。このマサにバシバシものを言えるのは……菜々美ちゃんくらいか。

「それにしても、素早い奴だったな。転入してきたら空手部に誘うか」

「えぇっ」冗談じゃない。部活でまであんな奴と一緒だなんてゾッとする。

「いや、無理そうだな。あいつはどちらかというとダンスとか……そっち系だ」

うん、うん、と頷いてから私は言った。

「確かに速かった。単に速いって言うんじゃなくてなんか……人間離れしてると言うか……」

思い出したら心底恐ろしくなってきた。それにあの、消えた子供……。

「奴が転入してきたら気をつけろよ」

「うん」

内心の恐怖を隠して私は力強く頷いた。



校門に向かってマサと歩いて行くと、部活を終えた菜々美ちゃんが手を振っていた。

佐藤菜々美ちゃんは一年の時からのクラスメイトで、転入生で緊張していた私にいつも声を掛けてくれた優しい女の子だ。

一年ぶりの学校でビクビクしていた私に何かと教えてくれて、昼食を一緒にとることも誘ってくれた。治希やマサと親しくなれたのも菜々美ちゃんのお陰だ。

江口陽菜も可愛い子だが、菜々美ちゃんもかなりの美人だ。一六三センチの身長にDカップのバスト(なんで知ってるかって? だって教えてくれるんだもん。一応男子なのに、私)。スラリと長い脚。

本人も自分の可愛さを自覚していて努力を惜しまない。テニス部なのに日焼けも少ない。美白の基本は日焼け止めよ! と力説してくれる。

おしゃれも大好きで将来の夢は行政書士兼メイクアップアーティストになること、と公言している。行政書士とメイクの繋がりが全く分からないが、菜々美ちゃんは成績もいいし、きちんと堅い職業を目指すことも忘れていない。

そのせいか菜々美ちゃんはよく、蘭ちゃんを化粧したい~、と迫ってくる。本気で勘弁してほしい。

「どお? 今日こそマサとの手合わせで三十秒超えられた?」

菜々美ちゃんは鞄を持った手を後ろに回して、小首を傾げて私に訊いた。こういう仕草をするとほんとに可愛らしい。今日の髪型はポニーテイル。茶色のストレートヘアがさらりと揺れる。

「えっと……それが部活に出られなかったんだ。時間がなくて」

「えーなんで? あ、分かった。またあの因業ババァに何か用事を言いつけられたんでしょ」

「う……ん。まぁそんなとこ」軟派野郎のことは言わなかった。オトコに迫られたなんて情けなくて言えない。

「もーっ、あのオバサン絶対婦人科受診した方がいいよ。病気よ。あれは」

菜々美ちゃんはプリプリ怒っている。里中先生に対する菜々美ちゃんの意見は厳しい。いつもスカートが短いって怒られてるからかな……。

「あれ、瑠璃ちゃんは?」

「瑠璃はまだ調理部みたい。なんか……筑前煮? だったかな、なかなかおばあちゃんみたいな味にならないって嘆いてた。最近、すっごい頑張ってるんだよ、オカズ系の料理。なんでだと思う~?」

「……え? な、なんでかな」

「もう、 蘭ちゃんってば。好きな人の為にお料理が上手くなりたいに決まってんでしょ。いっつも試食させてもらってるくせに!」

バシッと背中を叩かれる。痛いんですけど。