HV2

第三話

「どうしよう。返さなきゃまずいよな……」
と治希がつぶやく。

「とりあえず、ごめん、部活中。後でって返しとけば? 既読ついてるし、何も返事しないのは怒らせそう」

治希はため息をついて返事をしてから、親指フリックで素早く返事をした。そしてスマホをポケットに突っ込む。

「マジで先輩にどやされるから行くわ」

「……早めに、手を打った方がいいと思うよ。江口さんのこと。余計なお世話かもしれないけど」

私は真面目な顔で治希に言った。
うん、と治希は頷いた。二、三歩足を進めて、突然治希は振り返った。

「蘭は彼女ほしくないの?」

私は少し目を見張って治希を見返した。

「おれなんかより、蘭の方が断然、もてるじゃん。誰かと付き合うとか、したくないわけ?」

確かに私はよく女の子から告白される。
多分、見た目がかなり女っぽいので、突然むさくるしくなった男子についていけない、ちょっと夢見がちな女の子たちが、私の様な女子っぽい男子に興味を持つのだろう。

こっそりカメラで隠し撮りされたことも何度かある。手紙や、直での告白もよくある。
少し前、体育館倉庫に呼び出されたので行ってみると、いきなり服を脱ぎ始めた女の子もいた。あせって止めたら、やっぱり楠本先輩って優しい! と感激された。
なんとも大胆な方法だが、思いつめたら男も女も常識では考えられない行動に出るらしい。

──そう、男子からも誘われたことがある。
そいつは無言で抱きついてきたので、咄嗟によけて蹴りあげた。ヒンシュクものかと思ったが、それ以降、強い奴だと男子達から一目置かれるようになってしまった。

蹴られた方も、諦めるかと思いきや、これからいつでも殴るなり蹴るなり好きにしてほしい、と言ってきた。頭のネジが緩んでいるか、もしかして無いのかもしれない。
当然、きっぱり断った。

私は治希から視線をはずしてつま先を見つめた。

「それは……してみたいけど、やっぱ自信なくて……」

治希はきゅっと眉根を寄せると「ごめん、余計なこと言って」とつぶやいた。
治希は人の気持ちを思いやることが出来る、優しい奴だ。大切な友達だ。だから絶対、傷ついて欲しくない。

「なんかあったら、連絡くれよ」

私が言うと治希は笑って頬に笑窪をつくった。
そして軽く手を上げると、スポーツバッグを肩に掛けて校庭に向かって廊下を走って行った。

治希が私の「自信がない」と言う言葉にすぐ納得したのには理由がある。
転校して、一番困ったのはトイレだ。私の性器はまるっきり女性型だ。だから、立ちションなどという便利な行為が出来ない。

その為、なるべく人気のない男子トイレの個室で手早く済ますようにしていた。でも時々どうしてもみんなに混ざってしなければならないこともある。
集会の後などが特にそうだ。いちいち遠くのトイレに行くのも怪しまれるし、結局、個室しか使わない私の行動を、一部だが不審に思う者も出てきた。

私は知らなかったが、ちょっとした噂になったのだろう。ある日思い切ったように、なぜ個室ばかりに入るのか、と治希が訊いてきた。

私はどう答えたらいいのか、一瞬のうちで色々考えた。私は小心者なので、本当の事を治希に打ち明ける、などという真っ直ぐな考えは持てなかった。

言ったところで、治希が言いふらすような嫌がらせをするとは思えなかったが、せっかく軌道に乗り始めた男としての高校生活に、波風を立てるような事はしたくなかった。

この見た目で、男としての人生を送ることなど、当の男性陣が受け入れてくれるはずがない。そう思って、きっとそのことで絶望して、ズタズタになって死ぬのだろうと思っていた。

それなのに、治希やマサ、こと河野雅夫のお陰で、思いの他順調な高校生活を送れている。出来ればこのまま卒業まで行きたい。
贅沢だとはわかっていても。

だから私は治希に言った。
──言って、みた。

「実は……デカさに自身がないんだ……」

治希は最初、呆けたように私を見た。そしてその言葉が腹の奥に沁み込むと、口を結んで片手を私の肩に掛け、無言で小刻みに頷いた。

私にしては苦し紛れの言い訳に過ぎなかったが、それ以来、私が個室トイレを利用しても、あまり注目されなくなった。
私にはよく分からないが、サイズについての男性達の感性は、女性のバストの大きさより、もっとずっとデリケートなものなのかもしれない。

私は教室に向かって歩き出した。私も部活に向かうつもりだった。
空手部に入ったのは、顧問が一年生の時の担任の立川先生だった、という事が理由の大部分を締める。

私は例えどのスポーツであれ大会に出ることは出来ないと思ったし、最近良く貧血を起こすので、あまりハードな練習も出来ない。

私の身体の事情を知っているのは、校長と教頭、担任に当たる教師だけだ。あくまで、身体を鍛える運動の為、というなんとも都合のいい条件で部活に参加出来るのも、校長と立川先生の理解があったからだ。

マサも一年の時からのクラスメイトで、私がよく貧血を起こすのを知っている。
というか、マサの背中に担がれて、保健室に連れて行かれたことも何度かある。

マサは百九十五センチの巨漢だ。二年に上がって、二人しかいなかった上級生があっさりマサに空手部部長の座を譲った。だから昨日の日曜日も、朝から夕方まで部活があるところを、午前中の練習だけで免除してもらえた。

五月晴れの午後の公園でボーッとしていられるのも、その特権のお陰だ。
そして、もちろん、そういう特権を気に食わなく思う人はいる。