HV2

第一話

緑を切り裂いて、五月の青い空が覗いている。

風は春先の冷たさを緩めて、暑くもなく、寒くもない空気を運んでくる。冬服を着ていると体温が服の中で上昇して、自分の熱が自分の中で籠っていくような不快な感じがする。

私はブレザーを脱いで座っていた公園のベンチの背もたれに引っかけた。そしてそのまま両手両足を伸ばしてお尻をベンチの腰掛けの前にずらす。斜め仰向け状態でもう一度、生い茂った新緑の間から細く覗く青空を見上げた。

うーん、と手足に力を入れると爽快感と開放感を同時に感じた。思いっきり脚を広げられるのも男子の制服のおかげ。
スカートだったらこうはいかない。まぁ、やる人はいるかもしれないけど……以前の私なら、きっとそんな勇気はない。

私はベンチの背もたれに両腕を掛けてずり落ちて行こうとする身体をとめた。顎を上げて淡い黄緑の葉の柔らかさを目に沁み込ませる。
今しか見られない若葉色。今しかかげない初夏の香り。

私はそっと目を閉じた。なぜか分からないけれど、私はこの公園が好きだった。
ここにくると柔らかくて優しくて……甘い思い出に包みこまれるような気がする。

でもその中には、底のない暗い落とし穴が存在する。それはわかっている。だから私はその穴に落ちないように慎重に心を広げてから、記憶にない甘美な思い出を味わうのだ。

──この土地で、絶望して消えるつもりだった。「男」として生きることで。

それなのにこの公園にくると、凛として、力強くて、でもとろけそうに甘いその気配が私をくるみこみ、闇を打ち消す。愛など知らないのに、深い愛を感じさせる気配。

そしてそのせいで、私はまた思ってしまう。もう少し生きてみようか、と。
多分、私は欲張りなのだ。だからこうしていつまでもこの世にしがみつく。
ここはこんなに──生き難い世界なのに。

嫌なことがあるとここに来て慰められたいと思うのは、心の底では生きたくてたまらないからだ。
死を求めながら、生を恋い慕う。二つの、相反する想い。

私は目を開けた。相変わらず揺れる若葉と薄雲が掛かった空がこちらを見下ろしてくる。今度は身体を持ちあげて、ベンチの上で両足を抱える。
しばらく切っていないせいで伸びてしまった髪が頬をくすぐった。地上に視線を戻すと、遊歩道にそって延々と続く雪柳の白さが目に眩しい。

今を盛りと咲き誇る白い花のかたまりが、ゆるやかな風に吹かれてそっと手招きしている。
少なくとも、自然の美しさは誰の上にも平等だ。

楠本蘭。高二。十七歳。もうすぐ十八歳。性別、多分──男。
とりあえず、生きてます。



「らん、らんっ、らーん!」

下を向いて廊下を歩いていると、デカい声で私の名前を呼ぶ声がした。顔を上げると前方で級友の遠藤治希が手を振っているのが見える。私は唇をとがらせて治希に近づいた。

「ぼくの名前って連呼すると、ちょーご機嫌に聞こえる」

私は注目を浴びるのが嫌いだ。いくら放課後の廊下でも歩いている生徒はパラパラいる。治希の大声でみんななんとなくこちらを振り返る。もう少し静かに出来ないの? と思って治希を見上げた。

でも治希のあけっぴろげの明るさに、いつも不機嫌は続かない。
治希は満面の笑みで、ほっぺに笑窪を作りながら私の肩に手を掛けた。
触り屋遠藤、本領発揮。

「おう、その通り。おれ、今すっげーご機嫌だもん」

「なんで?」

私は首をそらして治樹を仰いだ。最近、治希はグンと背が伸びた。私が転校してきた一年生の九月頃にも一七五、六センチはあったと思うけど、二年生に進級したこの五月までに、多分五センチは伸びている。
柔らかな頬のラインがすっと引き締まって頬骨が高くなり、体つきも筋張った感じになった。

クラスの男子達も似たような変化が始まる者が増えたような気がする。

少年から青年へ。〝男の子〟から〝男〟へ……。
当たり前だ。みんな──普通なのだから。第二次性徴期の当然の経過。
でも私の身長は一六五センチのまま止まってしまった。
空手部で鍛え始めてから少し筋肉が付いたけど、男らしさからは程遠い。

私は完全型アンドロゲン不感受性症候群という、男か女か分からない性を持っている。
生物学上は〝男〟。なにしろお腹に停留精巣がある。でもそこから出される男性ホルモンは、私の体の中ですべて女性ホルモンに代わってしまう。だから私の身体には一切の男性ホルモンが存在しない。

正常な女性の身体は女性ホルモンと共に男性ホルモンも出す。でも私の身体は、全く、ひとかけらも、男性ホルモンの影響を受けない。産まれた時から外見は完全な〝女〟だった。そのため産科の医師も、両親も、女だと疑わなかった、もちろん、当の本人である私も。

初潮が十六歳になっても訪れなくて、調べた結果わかった衝撃の事実。高一まで一六年間、女として生きてきた。だからこの身体の真実を知って立ち直れないくらい落ち込んで、一年間引きこもった。
そして実家を離れて兄と暮らすこの町で、男として生きることを選んだ。

治希の男らしくなった全身を感じて、私はますます自分という者が分からなくなる。もし正常に男として産まれてきたら私もこんな風に背が伸びて声も低くなっただろうか。兄の様に。

兄の凛は身長が一八五センチある。よく部屋の鴨居に頭をぶつけている。

「実はさっきさぁ、コクられたんだよ」

「へぇ~、やったじゃん。で? 誰よ、その物好きは」

ふざけて返したけど、治希が女子に騒がれているのはとっくに知っていた。人懐こくて誰にでも明るく接する性格だから、もてて当然だ。あまり身なりに気を遣わないのが玉に瑕だが、元々カワイイタイプの顔立ちだし、今はかなり男っぽさが増したから尚更だ。

ただ、いままでは女の子より部活と友達を優先していたと思う。私はその理由を分かっている。

「聞いて驚け。江口陽菜だよ。あのっ」

「えっ。江口さん?」

江口陽菜は二年の男子なら、多分知らないヤツはいないだろう、と確信できるくらい、綺麗な子だ。色白で茶色の髪を背中の半分あたりまで伸ばしている。その髪をいつも編み込んだり、持ち上げたりして可愛くまとめている。

身長は一五〇センチくらいと小柄なのに、おっぱいはかなりの自己主張をしている。すれ違うだけで、男と名のつく者なら思わず振り返りたくなるであろう雰囲気を醸し出している。
性格も明るくて、オシャレ好きな派手派手グループのリーダー的存在だ。

私や治希と同じ進学クラスだが、私達はA組で江口陽菜はB組。隣の組だがあまり接点はない。
でも噂では良く聞く名前だから知っている。

良い意味でも、そして……悪い意味でも。