第一話

「ヤッポーン」

バカ丸出しの挨拶が後ろから聞こえる。私は振り返った。後ろには、健二がいた。健二と腕を組んでいるのは、茶髪に縦巻きロールの知らない女の子だった。

「……何か御用でしょうか?」

私は努めて冷静な声で返事した。ワザと眼鏡に手を当てて位置を直す振りをする。いかにも秀才に見えるように。

「んっだよ。その態度は。それが幼馴染に対する挨拶か?」

私は無表情で健二を見る。健二と私には、幼馴染という以外の関係は全くない。いつ会っても違う女をはべらせている健二に、生真面目な私が関わる余地などない。

「え〜ッ健二ってば、こんな子と幼馴染なの?」

茶髪の彼女が舌足らずな声で言った。健二もバカだが、この女はさらに輪をかけたバカらしい。

オサナナジミと言うのは、偶然近くで生まれて幼少期を共に過ごしただけの相手だ。その相手がどんな子だろうと、お互い全く関わりがないはず。

例え健二が容姿に恵まれた上、お金持ちのおぼっちゃまだったにしても、私まで同じとは限らない。

「そちらの偏差値の低そうな方は何番目の彼女ですか?」

私は言ってやった。彼女がムッとした顔で私を見た。どう思われても構わない。嫌な女だと思われても。大学さえ出てしまえば、私は遠くに就職するつもりだ。もう、健二に会うこともあまりなくなるだろう。

「あ? そうだな……。十番目」

健二が両手をパーにして私に向ける。やっぱりバカだ。真面目に答えてる。茶髪の彼女はショックを受けたように健二を見上げた。

「オレまだレポートが終わってないんだ」

彼女の様子など意にも介さず、健二は私に言った。よほど切羽詰っているのかもしれない。いつもなら今夜のアイテには徹底的に優しくするはずだから。例えそれがたった一晩だけの相手でも。

「で?」

一応、健二の言い分を聞くことにした。

「だからぁ〜。資料をまとめて、要約して、箇条書きにしてほしいんだっ。ね、お願い。花音ちゃん」

「キモイ呼び方しないで」

ビシッと言い返す。こんな奴は甘やかすと付け上がるだけだ。

……と思ったけど、私は何度もコイツを甘やかしてる。さっき健二とは幼馴染以上の関わりはないと言ったが、実は勉強に関してはかなり関わっている。私は健二に懇願されると断れないという悪癖を持っていた。

悔しいけど、甘い笑顔で迫られると断れない。健二はとにかく、甘えるのが上手。小さい頃からそう。幼い頃は、何度好物のチョコレートを譲ってしまったか分からないくらいだ。

「大学生の本分は何?」

私はなるべく大声で聞いた。今回こそは負けるもんか。

「お勉学でしょうか」

健二が答える。珍しく真面目な顔だ。

「そう。大学生のやることは資料をまとめて、要約して、箇条書きにして、自分の意見を交えてレポートを作成すること。それも全部自分の力で。はい、サヨナラ」

私は踵を返して足を踏み出した。とにかくこの場を去りたい。今日は大好きな作家の待ちに待った新作小説の発売日だ。誰にも邪魔されず、世界に浸り込む予定。

「待てよ、花音。お礼はするから。な、な、な」

健二が私の横に並ぶ。今までだって、そう言われて助けても、一度も何もしてくれたことない。まぁ、健二はバッグだのアクセだの買ってくれようとしたけど、私がそんなもの欲しくないというと、何をしたらいいのか分からないらしく、結局そのまま忘れられるのだ。

健二が私の腕を掴む。そういえば彼女は置いてけぼり? 私が立ち止まって振り返ると、茶髪の彼女はさっきの位置から呆然とこっちを見ている。

「可哀想じゃない。あの人」

さして可哀想だとも思わなかったが、健二から少しでも逃れたくて言ってみた。健二は彼女に向かって手を振ると大きな声で言った。

「わりぃ。気が向いたら後で連絡して。オレの予定がなかったら、またよろしく」

彼女は遠目にも、その言葉に少なからず衝撃を受けたらしいことが分かった。一度仁王立ちになってから、くるりと向きを変え反対方向に去った。

「ソレ、正気で言ってんの?」

「あったりまえじゃん。別にあの娘とそれほど親しくないし。ていうか、名前知んねーや」

うわー、最悪。私なんでこんな奴と幼馴染なんかやってんだろ。人生をやり直したい。

「まぁ、あれで引き下がるんだから、それなりに脳みそがあったみたいだな。前付き合った女の中で、バカ、ブス、死ねっつっても付いて来た奴がいた。信じらんねーよ、マジで」

私はあんたが信じらんない。例え冗談でも、好きな人からそんなことを言われたら私はショックで死んでしまう。健二と付き合ってなくてよかった、と心底思う。

「それで花音、これから図書室に付き合ってよ。お前ならシャシャーッとまとめられんだろ?」

健二は大きな誤解をしている。私は元々不器用で、人の何倍も努力しないといい成績が取れない。いい成績が取れているということは、他の楽しみなんかろくに味わわず頑張って勉強しているからだ。

健二は私の腕をとって自分の腕に絡めた。私の心臓は可哀想なくらいドキドキ鳴っている。顔を赤らめた私を見て、健二は楽しくなったらしい。今度は腕を外すと、私の肩を抱いてくる。

「お礼はぁ……H、でどう?」

私の全身が地震にあったみたいに揺れた。頼りになんかならない自分のバッグの取っ手を握って、体に力を入れる。揺れは収まったのに、硬直が健二に伝わってしまった。

「ほらほら、こんなくらいで動揺してるのは、ヤったことないからだろ? 花音も来月ハタチなんだから、膜を破って一つ成長した方がいいと思うぞ」

言いながら健二の手は肩からウエストに下がり、腰のあたりを撫で始める。何が膜だ。成長するために破るのは殻だ。そんなこともしらないのか馬鹿め。

そう言って見下したいのに、健二の手の動きに私は細かく震えてしまい、一言も出ない。健二の奴、なんで私が未経験だと分かるんだろう。

「初めての相手は、それなりに慣れてるヤツがベストだ。オレならよく知ってる相手だし、おまけにイケメンで技術も高い。一石三鳥。超オススメ!」

私はますます震えた。健二がどこまで本気で言ってるのか分からない。断固、拒否だ。

「ふ、ふじゃけないで!」

ダメ、噛んだ……。迫力ゼロ。

「誰もふざけてねぇよ。お前、何にも買わせてくんないし……。それに悪い話じゃないと思うぜ」

健二は何故か冷静な声で言った。今度こそ……、今度こそハッキリ断る。

「あっ、あんたとするくらいなら、犬とやった方がマシよ!」

健二は呆気にとられて私を見た。ぶふっ、と息を吐く音が聞こえる。音の方を見ると、スーツを着た男性が近くまで来ていた。「犬に負けたな、健二」とその男性は笑いの残った顔で言った。

「……兄貴じゃん。何してんの?」

健二は私の腰に回した手にグッと力を入れる。健二が緊張してる。 私はその理由を知っている。

健二のお兄さん、健一さんは製薬会社の研究所で薬の開発をしている社会人だ。健二とは結構年が離れている。健一さんが就職して実家を出たのは何年も前だ。学生時代から優秀な人だった。私はよく学校の宿題を見てもらった。

健二とは全然顔立ちが似ていない。それは当たり前だった。本当の兄弟じゃないのだから。健二はいわゆるジャニーズ系のアイドルみたいな派手な顔立ちだが、健一さんはキリッとしたお侍さんみたいだ。

二人が本当の兄弟ではないのは、健一さんがもらわれっ子だからだ。健二のご両親には長いこと子供ができず、諦めて健一さんを孤児院から養子にもらった。でも数年後、自然妊娠で健二が生まれてしまった。

ご両親にとって、本当の子供は健二だ。健二の父親は有名企業の取締役。跡取りは重要だった。健一さんは健二に長男としての権利をすべて譲って家を出た。健二はそれが相当嫌だったみたいだ。

「なんで兄ちゃんが出てかなくちゃなんないんだよ」 と言って泣いていたのを覚えている。

ご両親は出て行く健一さんを黙って見ていた。でもさすがに健一さんに申し訳ないと思ったのか、実験室付きの豪華な家を隣町に建てて、健一さんに住まわせている。これをやるから後の事は口を出すな、とでも言うような両親のやり方も健二にはつらいことだったらしい。なので、健一さんに会うと健二は変な緊張を覚えてしまうのかもしれない。

健一さんは涼やかな目元を少し細めて健二の質問に答えた。

「実は製薬会社からアルバイトを募集しててね。掲示板に広告を貼らせてもらおうと思って来たんだ。僕はここの大学の薬学部出身だから、教授に頼んで掲示板を使用できる許可をもらえたんだよ」

「バイトって……。どんなことするんですか?」

私は健一さんに聞いた。ウエイトレスのバイトをしているが、もっとお金が欲しい。私は大学に奨学金で通ってるから、少しでもお金が手に入ると助かる。

「新薬の実験対象を募集中なんだ」

「新薬ってなんですか?」

「そうだな……しいて言えば、健康になるための薬、かな」

健康? 
健康になれる薬なんてどんなものだろう。

「ふーん。それってヤバくないの? 飲み薬?」

健二が興味を持ったのか兄に向かって聞いた。

「動物実験は済んでるよ。学生さんにやってもらうものだから、それほど危ないものじゃない。サプリメントを飲む、くらいの感覚でいてくれればいいんだ」

「それ、誰でもいいんですか?」

私は勢い込んで言った。サプリメントを飲むならそんなに危険じゃなさそう。

「そうだねぇ。出来れば男性がいいかな」

「そうですか……」

私はガックリして下を向いた。残念だな。お金になると思ったのに。

「それ、どんくらい貰えんの?」

健二がまた聞く。

「十万円だよ」

私は衝撃で固まった。 もう、なんで私は男じゃないの?

「オレ……協力してもいいよ」

健二が言ったので、私は驚いて健二を見上げた。健二はお小遣いなんて捨てるほどもらえるはずだ。なんでバイトなんかしたいんだろう。

「本当か? それは助かるな。これでわざわざ広告を貼る必要がなくなったよ」

健一さんは嬉しそうに言った。健二に詳細の書いてある紙を渡すと、ウキウキした足取りで去っていった。

「ねぇ、なんでやる気になったの?」

私は健二に聞いてみた。お金が欲しいのだろうか。健二にとっては十万などひと月の小遣いだろう。

「……まぁ、ハタチの挑戦ってとこ」

「へー」

他になんと言っていいのか分からなくて私はそれだけ言った。羨ましいな。お金持ちなのにさらにお金が手に入る。世の中というのはこういうものなのかな。

「そんじゃな」

健二はその場を去ろうとした。私はさっきまでの会話を忘れてない。こんなにあっさりレポートの事で健二が引き下がるなんてどういうことだろう。

「レポートはいいんだ?」

私は断固拒否することも棚に上げて健二に言ってしまった。本当は頼られて嬉しい自分の感情に嘘をつけない。もっと健二と一緒にいたいと思っている本心にも。

「オレは犬以下なんだろ?」

健二は本当に傷ついたみたいに、声を低くして言った。私から目をそらして、唇を噛んでる表情も落ち込んで見える。

「ああもう! わかったから。資料探しと要約までは手伝ってあげる」

「マジ!?」

パッと健二の表情が明るくなる。案の定、またやってしまった。健二のおねだりには絶対勝てない。

「よしよし、今から図書室へゴー」

笑った顔は5歳の頃から変わらない。憎めない笑顔。私は認めずにはいられなかった。結局のところ、私は健二が好きなんだと言う事を。



私は健二のレポートのテーマから必要な資料を探すために、図書室の中をウロウロしていた。そこで視線を感じた。なんとなく、嫌な予感。さりげなく周りを見渡して、確認してしまった。やっぱりあいつだ。山田英治。

私は山田英治のいる方向を見た。彼はさっと視線をそらすと、ゆっくり本棚の影に移動した。

山田英治は、二度ほど一緒に出かけたことのある人だ。向こうから「須永さん、一緒に映画を観ませんか?」と言ってきた。私は彼を知らなかったので躊躇ったが、七三分けに眼鏡という見るからに誠実そうな外見を目にして、映画くらいなら一緒に行ってもいいかな、と思ってしまったのだ。

認めたくない気持ちもあるけど、私はずっと健二が好きだった。でも健二は私になんか目もくれない。中学の頃から女の子を取っ替え引っ変えしていた。

女の子達はみんな綺麗だった。可愛かった。中一の時、父親が失踪して精神的にも経済的にも余裕のなかった私は、そんな女の子達が健二に群がるのを遠くから見ていることしか出来なかった。

健二と私は違いすぎる。小学生の時から極度の近視でビン底メガネを掛けて、年上の従姉妹から譲ってもらった流行遅れの服を着て家計を助けていた私に、健二を好きだと言える勇気などない。

山田英治から誘われた時、きっと私にはこういうタイプの人が合うのだろうと思った。真面目でメガネ、私にぴったりではないか。

それに上手く彼を好きになれれば、健二を思って枕を濡らす日が少なくなるかもしれない。不純な動機だった。だから天罰が下ったのだ。

山田英治は見た目通りお堅い$l間だった。私は映画を一緒に観る日、約束の場所に十分前には着いていた。山田英治は約束の時間ピッタリに来た。多分、時報がポーンとなるのと同じ時間に。

「須永さん、もう来てたんですか?」

「あ、はい。少し前に」

「そんな……時間の無駄じゃないですか。時間とはきちんと守るものです。僕は例え一秒でも狂うのは嫌です。早すぎも遅過ぎもしない。それが理想です」

「……」

この時点で逃げ出せば良かった。でもチケットも勿体ないし……と、映画に向かった。山田英治のチョイスした映画は、日本映画でおじいさんが娘を思う物語。

確かに感動もので泣けるかもしれないが、いかんせん主人公がジジ過ぎる。私は見た目からは想像つかないかもしれないけど、恋愛ものが好きなのだ。映画は退屈で途中でウトウトしてしまった。山田英治は一人で感涙していて、私の退屈に気づかなかった。

次に会う約束は、ほとんど強引だった。この日に何時、とだけ告げられて山田英治は去った。家の前まで送ってくれるなんてロマンチックな状況は、彼にとって想定外なんだろう。

次のデートは博物館。「世界の石」だって。もう一人で行って。

博物館の中を巡る間ずっと、山田英治は石に対する自分の御託をしつこく語っていた。脳みそが石になりそうだったけど、とりあえず最後まで付き合った。

帰り道、空がとても青くて綺麗だった。「空が青いですね」と何気なく言ってみた。山田英治の目が、メガネの奥でキラリと光る。

悪い予感がした。そしてそれは的中した。山田英治は空がなぜ青いのか≠徹底的に詳しく私に説明する。空気中の分子が太陽光の青色のみをとらえて、電子が……とか。一応勉強にはなったけど、それほど楽しい会話でもない。

というか、会話などしていない。山田英治はひたすら自分の持っている知識を語り続け、自己満足に浸っている。

「これでもう会うことは出来ません」

私はハッキリ言った。

なぜです? なぜなんです? 僕の何がダメなんです? 僕と須永さんは合うと思います。僕は、結婚したいと思っています。

山田英治はそう言って私を説得にかかった。まだ学生なのに結婚まで考えてる彼の思考回路が理解できない。

私は最後には父が危篤だと嘘をついて逃げ出した。父なんかしばらく会ってないので危篤かどうかなんて分からないけど、本当に危篤ならいいと思いながら。……どうせなら死んでてほしいけど。

山田英治はそれ以来、私を誘ってはこなかった。でもあの日以来、あいつのストーキングが始まった。