第一話

「健太郎くん」

学校からの帰り道、後ろから声を掛けられ健太郎は飛び上がりそうになった。常時さりげなさを最大限に装った視線を受け止めることに慣れていたはずなのに、友人と別れて一人になった途端、神経が張り詰めていたらしい。

何ビクってんだよ。しっかりしろ。

健太郎は強く自分に言い聞かせると、動揺で不自然にならないように気をつけながら振り返った。後ろにはクラスメイトの岡崎花鈴(かりん)がいた。

「おう。今帰り?」

「うん。今日は部活早めに終わったの」

花鈴がちょこちょこと小走りに近づいてくる。それを見て、健太郎はチワワみたいだな、と思う。花鈴に会うといつもフワフワの小動物を連想してしまう。

百八十センチに近い身長の健太郎から見ると、背の低い花鈴は小学生みたいだ。多分、百五十センチちょっとしかないだろう。しかし絶対的に小学生と違うのが、その豊かなバストだ。

なかなか見ごたえのあるおっぱいをしてるよな、と健太郎は思った。そういう所は、いかにも思春期真っ盛りの男子高校生らしさを思わせる。

ただ健太郎は普通≠フ十六歳の高校生ではなかった。何しろ……黒服でサングラスを掛けた屈強な男三人にいつも見張られているのだから。

「で、絵の方はどうよ?」

「あうう……聞かないで。今回のは失敗かも」

花鈴は両手を頭に当てて両脇の髪を握った。こういう仕草も愛玩動物を見てるみたいで何だか気持ちがふわっと暖かくなる。両腕を持ち上げたことで小刻みに揺れる柔らかそうな二つの胸も、健太郎の心の温度を高める重要な役目を果たしていた。

健太郎は釘付けになりそうな視線を、花鈴の胸元から無理矢理離す。これ以上見てたらもっと他の部分がアツクなってきそうだ。

「にじみが綺麗に出せないの。水彩画ってもっと簡単だと思ってたのに甘かった」

「なんで? 花鈴ちゃんはいつもきれいな絵を仕上げてるじゃん。ぼやけた感じなのに、きちんと描かれたものが引き立って見える。すごく不思議で、オレは好きだな」

花鈴は無言で、めいいっぱい首を上げて健太郎を見返した。頬がほんわりピンクに染まる。自分が赤面していると自覚してか、花鈴は急いで下を向く。

「もう、そんな風におだてたって何も出ませんからね」と照れ隠しの為か少し怒った声で言った。

「オレはいつでも全力で本気だけど?」

健太郎は目元を細めて薄い微笑を浮かべながら花鈴に言う。この笑い方をして、健太郎が見つめた女の子はその場で確実に恋に落ちる。その事を健太郎が自分で気付いてからは、なるべくこの殺人スマイルを女子に向けないことにしていた。

こんな笑顔一つで何度もラブレターをよこされたり、家にまで押しかけられたりするのは迷惑以外の何者でもない。

案の定花鈴も、健太郎の笑顔で軽い目眩に襲われたようだった。目を何度かしぱしぱさせてから、「……ありがと」と小さい声でお礼を言った。

花鈴は別だ、と健太郎は思う。花鈴にならこの微笑みを都合よく取ってもらって構わない。

健太郎が花鈴と話すようになったのは、入学してひと月ほど立った初夏の頃だ。美術の時間に筆拭き用の雑巾を美術室に置いて、そのまま教室に帰ってしまった。後からそのことに気付いた健太郎は、放課後美術室に取りに戻った。

美術部員は5人しかいなかった。4人は油彩画に取り組んでいる。花鈴だけが一人、水彩絵の具を紙に染み込ませていた。

紙は一面青に塗られていた。ぼかしが効いているのに、何故か高く透き通るような空を思わせる。「何描いてんの?」と思わず健太郎は声を掛けた。

花鈴は最初ポカンとした顔で健太郎を見上げた。目の前にあるのは、女子のアイドル榊原健太郎くんの顔だ。大手玩具メーカーの会長の孫で運動神経抜群、入試トップで高校に入学。俳優のオカダマサキくん似の淡麗な容姿。非の打ち所がない、というのはこの人の為にある言葉だと女子は騒ぐ。

同じクラスだし、もちろん花鈴は知っている。ただクラスメイトなのに一度も喋ったことはない。というか、花鈴は男の子と話したことがない。男子は苦手だ。みんな乱暴で言葉遣いが悪い。身長の低い花鈴にとって、男の子はすべて大きくて危険な動物≠セった。

父親以外の男子に免疫のない花鈴は、突然クラスの男の子に声を掛けられた事にどう対処していいのか分からなくなっていた。しかも相手はみんなの憧れ、榊原くんだ。

由紀におこられちゃう、と花鈴は思う。隣のクラスで親友の由紀は榊原くんにメロメロなのだ。

絶句したままの花鈴を根気よく見つめていた健太郎だったが、返事がないのでもう一度聞くことにした。

「……空?」と問いかけてみる。

花鈴は一度息を吸い込んで、ゆっくり吐き出した。例え榊原くんが男の子≠ナ人気者≠セったとしても、同じ高校生ではないか。それほど緊張しなくていい。立場は同じはずなのだから。

「そう、空。……のつもり」

花鈴は断言するのをやめておいた。ただひたすら青のみの絵。絵画による精神分析でもされたら、あっさり「要注意」と出されそうな絵だと自分で思う。

「高い空、だね。秋?」

「ううん。冬」

「──そうなんだ、やっぱり」

やっぱり?
花鈴は健太郎を振り仰いだ。椅子に座ってイーゼルの上に板を載せ、水彩専用の荒目画用紙にアクアレルを染み渡わせていた花鈴から見ると、健太郎の顔は遠くに見えた。

健太郎は腰をかがめると、絵に顔を近づける。男の子の顔がすぐ近くに来て、花鈴の心拍数は走ったあとみたいに早い。でも動揺してばかりはいられない。花鈴は思い切って聞いてみた。

「やっぱりってどういうこと?」

「うん。見た途端、冬の空って気がした。こういう空を見たことがあるから」

「……どこで?」

「那須。冬にそこに行ったんだ。那須の別荘で見た空に似てる」

別荘か……。さすがお金持ちは違うな、と花鈴は心の中でつぶやく。でも食い入るように自分の絵を見つめる健太郎の表情を見て、花鈴はそんなやっかみも含めた自らの卑屈な感情が消えてなくなるのを感じた。

絵を見つめ続ける健太郎の目は、懐かしそうで、愛おしそうで……どことなく苦渋を秘めているような色をしていた。何故自分がそんな風に思うのか花鈴には分からなかったが、健太郎が花鈴の描いた空の絵の中に、見つけたかった何かを見て取ったのだと確信を持つことが出来た。

「あの……良かったらこの絵あげようか?」

「え!?」

花鈴の突然の申し出に、健太郎は驚きを隠せなかった。自分はろくに話したこともないクラスメイトの女の子に唐突に近づき、殆ど不躾とも言える態度で接している。彼女は健太郎を不審がってしかるべきなのだ。

普段、健太郎は不用意に女子に近づかない。祖父母の思い出話でしか聞かない自分の父親の女性遍歴からは想像もつかないほど、女の子に対して奥手だった。

「ええと、完成したらでいい? まだあたしの中では出来上がってないの。もう少し色に納得することが出来たら、あげる」

健太郎は目の前で微笑む花鈴の小さな顔を改めてじっと見つめた。クラスメイトだけど、実は名前もよく知らない。確かオカザキ、だったと思う。

クリクリした大きな目は潤んでいて、真っ直ぐ健太郎の目を捉える。その目は純粋に自分で描いた絵をあげたいと思っているように見えた。媚を売っているとか、好かれたいとか、あわよくば付き合いたいとか、そういう下心を全く感じさせない綺麗な瞳だった。

健太郎は物心ついた頃からずっと、多数の人間からのいやらしい利己心に振り回されてきた。それこそ、人間不信に陥りそうなくらい。人に対して慎重ならざるを得ない健太郎だからこそ、見抜けたと思った。

他意はない。この子の心には。

一方花鈴の方は、近い場所で見ても美しく整った健太郎の瞳が、見開かれたまま自分を注視しているのを不安な思いで受け止めた。思いつきで言ってしまった自らの申し出が、健太郎にとって迷惑だったのではないか、と思ったのだ。

こんな……全然上手くもない絵なんか、いきなりあげると言われても困るだろう。しばし見つめあった後、花鈴はツイと視線をそらして健太郎に告げた。

「ごめん。いらないならいいんだ。気にしないで」

「……あ、いや。違うんだ」

健太郎は焦った。彼女の純粋さが新鮮で、思いのほか長く見つめてしまったらしい。しょんぼり下を向いてしまった彼女は、雨に打たれた子犬みたいだ。見ているだけで胸が痛む。申し訳ない、と思った。

「もらえるとは思わなかったから、ビックリした。オレにくれちゃっていいなら、是非欲しいよ」

「うん。いいの、くれちゃって。もらって。その方が頑張って仕上げようって目標が持てるし」

ふふ、と笑った彼女の顔に、健太郎は今まで感じたことのない感情が体の芯から芽を出すのを感じた。胸の中心に暖かいかたまりが出来て、外に向かって溢れ出てくる。

こんな感覚を味わったことは一度もなかった。春みたいだ。いつもどこか薄ら寒かった心の中に、春の陽が差し込んだ。健太郎はその初めての想いに、我知らず涙が出そうになった。急いで額に手を当て、髪を直す振りをする。

「じゃあ、有り難くいただく。仕上がったら言ってもらえるかな。あ、全然焦らなくいいよ」

「わかった。それじゃ出来たら渡すね」

「うん、よろしく。楽しみにしてるよ」

健太郎の最後の言葉に花鈴は頬を染めて嬉しそうにうなずいた。心に差し込まれた春の日差しが、明るい陽だまりになったのを健太郎は快く感じた。それじゃ、と手を上げて花鈴から離れる。花鈴は小さく手を振って見送ってくれた。

数日後、帰宅途中の道端で花鈴の姿が見えた。児童公園の出入り口にある自動車侵入防止用のポールにちょこんと座って、所在なげに行き交う人々を見ている。

健太郎に気がつくと花鈴は急いで立ち上がり、ととと、と走ってきた。手にはビニールに包まれて丸めてある画用紙を、大切そうに抱えている。

最近教室でも見るともなく花鈴を見てしまう健太郎だったが、花鈴の方は挨拶するだけで近づいてこようとはしなかった。あれ以来、言葉らしい言葉を交わしていない。もしかしたら絵のことを忘れられてしまったのではないか、と不安になるくらいに。

「絵が出来たの」

前置きは何もなく、花鈴はいきなりそれだけ言うと持っていた画用紙を健太郎に差し出した。ちょっと手が震えている。かなり緊張しているようだ。

「あ……ありがとう。ホントにもらっていいの?」

こくり、と首を縦に動かす花鈴を見て、健太郎は絵を受け取った。健太郎の手に渡った画用紙を見て花鈴は力が抜けたように肩を下に落とす。健太郎は早速絵を見ようと包んであるビニールを開けようとした。「あっ、ダメダメ!」と花鈴が健太郎を止めに入る。

「なんでさ? オレ見たいんですけど」

「だって……だって、下手くそだもん。家でこっそり見て」

「それじゃ感想が聞けないだろ? こっち来いよ」

健太郎は花鈴を促して公園の中に入った。樹の下にある空いているベンチに腰掛ける。花鈴はオロオロしながらベンチのそばに立っていた。健太郎は花鈴を見ると、自分が座ったベンチのすぐ横をトントンと叩く。花鈴は健太郎からなるべく離れた位置に縮こまって腰掛け、小さい体を余計小さくした。

健太郎は画用紙をビニールから取り出し、丸められた絵をそっと開いた。そこにあったのは、どこまでも続く青空だった。四角い画用紙に描かれているのに、吸い込まれそうな程の奥行きがある。

あの空だ、と健太郎は思った。

父さんと母さんが愛し合い、二人で旅立った那須の青空がそこに存在した。不意に涙が湧き上がってきた。女の子の前で泣くなど、情けないことはしたくない。でもどうしても止められなくて、一粒だけポトリと落ちてしまった。

花鈴はただ黙って健太郎を見ていた。涙に気がついたはずなのに、一切何も詮索しない。しばらく絵を見つめた後、健太郎は花鈴に顔を向けた。驚いて息を呑む。隣では花鈴が下を向いて涙を流していた。