第一話

「お帰りなさいませ、若」

国際線の通用口から出てきた健太郎に直立不動で声を掛けたのは、教育係兼、ボディーガードの武重だった。

「……ただいま」

健太郎は気怠げに答えた。長い時間飛行機の中にいて、まだ浮遊感が取れていない。いくらファーストクラスでゆったり出来るといっても、カナダから日本まで狭い空間に閉じ込められていることには変わりない。

無事成田空港に到着してから、ベルトコンベアに乗って出てくる荷物をジリジリ待っているのも健太郎の疲れに拍車をかけた。

もちろん、健太郎はVIPしか入れない待合室でゆっくりすることも出来たが、携帯とにらめっこしていて、ちょっとお茶でも、という気分にはなれなかったのだ。

しかも出迎えに来た武重の隣に、見つけたかった人物の姿が見当たらなかったので、この三日間の特訓の疲労が二、三倍の重さとなって健太郎の心と身体にのしかかかる。

「Dr.ローリングサンダーはお元気でしたか?」

いつものように一見人懐こそうな微笑を浮かべて、大きなスーツケースを受け取りながら武重が健太郎に問いかける。健太郎はドクター・雷鳴親父を思い出してますます身体に重力が掛かったように感じた。

「元気過ぎるほど元気だったよ。ていうか、あのオッサンほんとに医者なわけ? 実は本職が忍者だったって言われてもオレは驚かねぇよ」

健太郎は学校が秋休みに入ったこの五日間、武重の師匠であるアメリカ人の医師ローリングサンダーにカナダの山奥で特訓を受けた。

健太郎の通う高校は、昨今では珍しくなった二期制を取っている。夏休みがほかの高校より三日程短く、その分を十月の最後の週にあてがう形になっていた。

土日と合わせて五日連休の日が出来る事になる為、生徒たちはみんなとても楽しみにしていた。

もちろん健太郎もそうだった。どこに行こうか……と考えていたら、武重から「わたくしの師匠にお会いになりませんか?」と言われたのだ。

ローリングサンダー氏は健太郎より十センチ程背の低い、痩身の白人男性だった。まつげの長いキラキラした青い瞳とスキンヘッド。うっすらとした微笑みを常に顔に浮かべて、何故かいつもチャイナ服を着ている。

童顔で若く見えるが、年齢は不詳だった。武重の師匠というくらいだから三十五よりは上なのは確かだが、いくつなのかはどんなにカマをかけても絶対口を割らない。武重とローリングサンダー医師との出会いは、武重が米軍に所属していた二十代前半の頃だと聞いた。

「いえ、なに。ちょっと軍隊でほふく前進をしてみたくなって入隊したら、同じ部隊の軍医がDr.ローリングサンダーだったという訳ですよ」

柔らかに微笑みながら武重は健太郎にそう言った。

米軍がちょっと入隊¥o来るものなのかどうか健太郎には分からなかったが、十代後半から二十代前半の頃の武重は、世界各国を渡り歩いていたらしい。

その体験談を聞こうと思うと何日かかるか分からないので、必要に応じて武重が話してくれる奇想天外な物語をほぼ話半分で聞くことにしている健太郎だが、武重がローリングサンダー氏から受けた特訓の話はまごう事なき真実だと判明した。確信できるのは、たった三日間だけだったがその恐ろしさを直に体験できたからだ。

最初は語学教育という名文でDr.と会う約束をしていた。軍医を数年勤めてからローリングサンダー医師は凄腕の外科医としてアメリカの大病院で働いていたらしい。でもその後、突如自然の中で生きることに目覚め、カナダのバンフに居を構えた。

市街地で開業医として小さな病院を経営する傍ら、山登りを楽しむ生活を送っている。健太郎はドクターの病院で、五日のうちの移動日を覗いた三日間、ネイティブの英語を仕込んでもらう予定だった。

でも空港に着いた途端、待っていたドクターが示した休暇の計画は、カナディアンロッキーを奥深くまで探索することだった。ドクターは驚く健太郎を、武重を彷彿とさせる薄ら笑いで煙に巻き、サバイバル用の装具一式を担がせて、人の踏み込まない国立公園に連れて行った。

ナイフやらロープやら、基本的な山用品はリュックに詰め込まれていたが、口に出来るものは塩、砂糖以外一切なし。マッチやライターなど火をつけられる物も入っていなかった。既に寒さの厳しくなった山の中で食べられるものを見分け、採取しなければならない。

食料を確保する事が、この特訓の重要事項の最上位に君臨することとなった。木の実を探し、罠を仕掛けて動物を捕る。健太郎には全て初めてのことだった。

健太郎にとって一番嫌だったのは、仕留めた動物を食べるためにさばかなければならなかった時だ。魚はまだいい。でも捉えたウサギを殺すのは、苦痛のあまり涙が滲んだ。

「感謝しなさい」とドクターは言う。

「スーパーでパッケージされた肉も、元は生きた動物だったんです。誰かが手を汚してくれている。その事を忘れないようにしなければなりません」

健太郎は神妙な面持ちでその言葉を胸に刻み込んだ。でもその後、お手本≠ニ称してドクターがウサギをさばいてくれた時の、嬉々とした表情と滑らかな手さばきを見て、神聖な気分がぶち壊しになった。

「これが肺、腎臓、肝臓、心ぞ……おや? どうしました?」

たまらず草陰に吐いてしまった健太郎に向かって、ドクターは不思議そうに問いかける。その手のひらに湯気の出る内蔵を乗せたまま言うのだから、健太郎の胃がそっくり返っても仕方ないだろう。

ファーストクラスで出された高級ステーキを全てもどしながら、このオッサンは明らかな変人だ、と健太郎は確信した。どうかドクターが若い男を切り裂きたい衝動に駆られませんようにと、口元を拭いながら健太郎はこっそり祈った。

サバイバルの中でも食料確保の次に苦労したのは、火を起こすことだった。木をこすったり、石を打ち付けたりと色々やったが、どれもうまくいかない。

一番良かったのは氷の塊だった。山も上の方に行くと大きな氷がゴロゴロしている。それをナイフで綺麗に凸状に削って、手で撫でながら滑らかさを出し日光に当てる。虫眼鏡で火をつける要領と同じで、光を集めた氷の先に枯れ草を置いたら、結構あっさり着火に成功した。

昼間つけた火を絶やさないようにしながら、山の中で長い時間を過ごす。夜はさすがに怖かった。この国立公園内には、コヨーテだのブラックベアだのが一般の観光客でも見かけるくらいウロウロしている。

一番怖いのはグリズリーだが、幸い三日の間で出会うことは免れた。一人用テントを張って、交代で火の番をしながら朝を待つのも「忍耐」という事を身に滲みさせるのに有効だった。

トイレも水道もない原初の世界で学ぶことはたくさんある。たった三日間ではそのさわりの部分に触れたくらいだろうが、健太郎は充分、お腹いっぱいになった気がした。

この小旅行で大きな益になったのは、ドクターの特技を伝授してもらえたことだ。ローリングサンダー氏は拳法の達人でもあったため、食料集めが終わると川原で武術の技を健太郎に教えてくれた。健太郎は本気でやってもドクターに勝てなかった。身体は小さいのに動きが早い。

「五感を使うんです。生きるための感覚を研ぎ澄ませる。その為にここまで来たのですよ」

ドクターに諭されながら、たった三日の間でも健太郎は急激に成長した。何しろこのサー・ローリングサンダーは神出鬼没だった。木の陰に隠れたと思ったら突然後ろを取られたりする。健太郎がこれほど完璧に、気配を全く消してしまう事が出来るようになるには、相当の訓練が必要だろう。

でもそこで、ある秘術も教わった。体の作りに関してはプロ中のプロであるドクターから授けられる術は、短い時間の為かいつまんだものではあったけれど、かなり有意義なものだった。

空港での別れ際、ヘトヘトになった健太郎に「次は夏に一ヶ月間大自然を満喫しましょう」とドクターが言う。背筋が寒くなる思いでドクターを見返した健太郎に、明るいブルーの瞳を少しぼかして医師が続ける。

「……あなたには、大きな災厄が待っている。この先いくら鍛錬しても、しすぎることはないでしょう。でもあなたはそれを乗り越えるだけの身体能力と強力な運がある。そう、女神だ。ケン、君の隣には美しいレディが寄り添って見える」

ドクターに普通の人には見えないモノが見える超能力があるのかどうかは疑わしいところだったが、隣に女神が寄り添っている、と言われるのは心強かった。ふと思いついて健太郎はドクターに質問した。

「そのレディっていうのは、小学生みたいに背が低いですか?」

期待を込めて聞いたのに、ドクターは珍しく愁眉を表す。

「いえ、私に分かるのは輝く影だけです。ただその光は美しい。本物のレディだと思いますよ。きっと胸はボイーン≠ナ腰はバイーン≠フナイスバディの美女でしょう」

その表現に仕方に、いささかドクターの個人的趣味が入っているのではないか……という思いが頭をかすめたが、ナイスバディの美女と聞いてちょっと落ち込んだ。

花鈴は胸はボインだろうがその他は12歳以下だ。自分はロリコンではない、と自覚するため時々花鈴の素晴らしいバストをこっそり愛でている健太郎だが、この先花鈴が美しい女性に成長する可能性は限りなく低いと思わざるを得ない。どうやら健太郎の女神は花鈴ではないらしい。

健太郎は落胆を顔に出さないようにドクターに別れを告げ、四日しか離れていないのに一年も経ったような思いで成田空港に降り立ったのだった。

武重が榊原家のアウディのトランクにに荷物を押し込んだところで、健太郎は聞きたかった質問を武重に投げかけた。

「花鈴は……どうしてる?」

健太郎が花鈴のことを聞きたいと思いながらも、躊躇っていたのには理由がある。ドクターの特訓を受けたカナダの山奥では、もちろんのこと携帯は不通だった。突然カナダに行く羽目になったことだけは花鈴に伝えてあったが、携帯が繋がらないところに行くことになるとは思わなかった。だから、電波の通じる場所まで来て電源さえ入れれば、花鈴からのメールや着信の履歴がズラリとディスプレイに並ぶと勝手に期待していたのだ。

それなのに、友人数名からの連絡は確認できたが、肝心の花鈴からの履歴は見当たらない。おかしい、と思って成田に着いたあと荷物を待つ間、花鈴宛にメールを三度ほど送ったが、未だ折り返しのメールは入ってきていなかった。

武重は健太郎の質問に、一瞬ピクリと背中を強ばらせると「……あの……その……ええと……」と言葉を濁らせ、身体をもじもじと動かした。

二メートルの巨体にもじもじされても、可愛気など微塵も感じない。健太郎は軽い癇癪を覚えて武重を見返す。全く……いつも余計な事はベラベラ喋るくせに人が早く確認したいことを言いよどむとは何事だ。健太郎は冷たい視線を武重に投げて答えを待った。

「実は花鈴様とはここ四日程連絡を取っておりません。若が不在の間、わたくしが花鈴様に拳法を教える約束でございましたが、初日にいらしただけで、後は用事が出来たから行けなくなったとお電話を頂いたのです。そう言われてしまうと、わたくしと致しましてはどうしようもありませんので、そのまま連絡は取らず終いでありました」

武重は申し訳なさそうにそれだけ言うと、口をすぼめて黙り込んだ。花鈴と武重は別に友達という訳ではない。拳法の練習を休むという連絡がきちんと入っている限り、四日くらい連絡がなくても武重が責任を感じる必要性はないはずだ。健太郎は武重の態度に不穏な空気を感じずにはいられなかった。

その後健太郎は武重の運転で榊原家に着くと、爺様とおばあ様に帰宅の挨拶をしてから、出かける準備をした。成田から自宅までの移動時間に睡眠を取っていたため、体力は既に元に戻っている。

普段健太郎の身体は、二時間も眠れば充分睡眠が取れている状態になる。これも両親から受け継いだ特異体質の副産物なのだろうが、眠れるときにはなるべく長く寝るようにしていた。

健太郎の両親も睡眠を必要としなかったが、寝なかったというより、眠ることが出来なかったと聞いた。その事が命を縮めたと云う事になるなら、睡眠は長く生きるために重要な役目を果たすことになると分かる。健太郎は幸い睡魔が襲ってくれる体質だ。試験の前など頑張らなければならない出来事がない限り、一日五時間以上は眠るように気をつけていた。

今回は少しの睡眠で疲れまでは取れなかったが、ベッドに倒れこむほどではなかった。花鈴に会いに行こう、と決めた。一応お土産も用意してある。こいつを大義名分に「渡す為に来たんだ」とさりげなく家を訪れてみよう。よし、行くぞ。

時刻は午後六時。まだ遅いという程でもない。健太郎は意を決して玄関を出た。