第六十九話  『甘えてるよ』


 玄関のドアが開いた。留夏が大人用の大きなサンダルを履いて、ドアからが体半分覗かせている。あたしが家に入ってこないので心配したのだろう。

 あたしはノロノロと、芝生に転がったバケツとシャベルを拾おうとした。でも上手く手に力が入らなくて、また元の場所に落としてしまった。なんだか頭が朦朧として、身体がすんなり動かない。朔也さんはサッと動いてシャベルを拾ってくれた。

「行こう。濡れるよ」

 朔也さんの声はいつもより低かった。あたしは小さくうなずき、黙って玄関に向けて朔也さんの後を追った。バケツとシャベルは玄関脇のプラスチックケースに入れて、家の中に入る。

「ごめんね、遅くなっちゃって」

 あたしは留夏の頭を撫でた。留夏はニッコリ笑って首を振る。朔也さんはさりげなく洗面所に行った。バシャバシャと水を流す音が聞こえる。顔を洗ってるみたい。続けて口をすすいだり、うがいをしているような音も聞こえた。

 洗面所から出てきた朔也さんは、まだ厳しい表情を崩していなかった。前髪の先端が濡れて光っている。不謹慎にもあたしは、艶めいた朔也さんのビスクドールのような顔に見とれてしまった。

 その後台所に行き、朔也さんは夕飯の支度に取り掛かった。あたしと留夏は手伝いをしたけれど、朔也さんはいつになく無口だった。話しかけると答えてくれるし、時々見せてくれる笑顔はいつも通り優しかった。でも終始伏し目がちで、どことなくあたしと目が合うのを避けているように見えた。

 夕飯を食べた後は、お風呂に入ったり、留夏を寝かしつけたりと、慌ただしく過ごした。子供がいると夕方から夜が早い。しかも物事を深く考える時間がない。あたしは留夏の部屋で添い寝をしながら、やっと今日の夕方の出来事をじっくり考えることが出来た。見たままを思い出してみる。

 吉崎さんと朔也さんがキスをした。いや、違う。吉崎さんが、朔也さんに、キスをしたんだ。言い方を変えただけだけど、これはかなりの違いがある。キスは吉崎さんから一方的にしたんだ。とゆうことは、あのキスは二人の合意の上じゃない。

 ……うーん、でも朔也さんは時々女装してお店に出てるし、やっぱり普通の男に人とは違うのかな? もしかして吉崎さんとは恋人同士で、さっきのはちょっとした痴話喧嘩≠セったのかも……。

 恋人同士、と思いついてまた胸がズキンと痛む。たとえ男であれ、女であれ、朔也さんに恋人がいると思うのはつらい。確かに里奈さんとは恋人同士ではあるけど、もう何年も会えていないんだし、朔也さんが他の人と何かあってもおかしくないはずだし……。

 色々考え過ぎて、頭がグルグルしてきた。留夏を見ると、完全に眠りに落ちている。あたしはそっと留夏のベッドから抜け出し、電気を豆球だけにして部屋を出た。そのまま真っ直ぐ自分の部屋に入る。一階の居間でテレビを見てもいいのだけど、朔也さんの様子がいつもと違うので行くのがためらわれた。

 あたしはベッドに座り、ぼんやりしていた。雑誌や本を広げる気にもなれない。横になっても落ち着かないし、眠れそうにもない。あたしはラグの上からテーブルをよけ、床を広くしてストレッチを始めた。いろんな緊張が続いて、体中凝り固まってる。

 脚を広げて上体をグッと前に倒した時、コンコンとドアをノックする音がした。「は、はいっ」あたしは変にビクッとして、必要以上に大きな声で返事をしてしまった。

「俺だけど……」

 ドアの向こうから聞こえたのは、朔也さんの声だった。そういえば、昨日の夜も朔也さんが来てくれた。なんだかデジャヴを感じる。

「あ、はい。どうぞ」

 あたしは答えた。でも昨夜と違って、朔也さんはドアを開けて入ってこなかった。あたしは立ち上がり、自分でドアを開ける。朔也さんは下を向いて立っていた。

 廊下の少し暗めの電気では、どんな表情をしているのかよく分からない。前髪が目元を隠しているせいで、きっちり閉じられた形のいい唇しか見えなかった。何も言わない朔也さんを不思議に思って、あたしは彼を見上げた。

 突然、朔也さんがあたしの肩を掴んだ。そのままあたしの肩を押し、部屋の中に一緒に入る。朔也さんは後ろ手にドアを閉めた。いつになく強引な朔也さんの行動に、あたしは呆然とした。どうしたのか訊こうと思い、口を開く。

「さく」

「小花、ごめん」

 言葉と同時に一気に引き寄せられ、あたしは朔也さんに抱きすくめられていた。驚き過ぎて息が止まる。朔也さんの腕は抗い難い強さであたしを包みこむ。力強く、でもどこまでも優しく、あたしの身体をしめつけてくる。

 朔也さんは顔を傾け、あたしの右頬にそっと唇を当てた。そして少しだけあたしから身体を離すと、両手で柔らかく頬を包む。朔也さんはあたしの唇に、自分の唇を重ねた。以前夢の世界≠ナしたのとは違う、少し強引なキス。

 ど、ど、ど……どうしよう! あたし、このままでいいの?

 でもそんな思いが頭を浮かんだのは一瞬のことだった。どうしてこうなったのかわからないけど、あたしは朔也さんの、細く見えるのに鋼のように強い腕と、奪うような甘いキスに全身の力が抜け落ちそうになった。

 朔也さんの左手はあたしの後頭部の髪をつかみ、右手はすべるように背中のラインを下へとたどって行く。その探るような、確かめるような手の感触に、ゾクゾクするしびれがあたしの下腹部を貫いた。

 朔也さんの唇があたしの唇に、少しずつ深く重なっていく。その舌が、あたしの口を割って入ろうとした時、思わず全身がこわばった。恋愛経験の全くないあたしの、うぶな反応。あたしの身体が固くなったのを感じて、朔也さんは弾かれたように唇を離す。あたしの肩に両手を戻し、腕を伸ばして後ろに退く。

 朔也さんは大きく目を見開き、口を半開きにして呆然とあたしを見た。まるで、不意打ちを食らって驚かされたのは、自分自身だったみたいに。

 朔也さんは自分の口元を手で覆った。そしてあたしの肩からもう片方の手を離すと、彼にしては珍しくよろめくようにベッドへ向かい、ドサリと音を立てて腰を下ろす。

「──ごめん。俺……どうかしてる」

 朔也さんは口元に手を当てたまま、申し訳なさそうに謝った。かなり落ち込んでしまったみたいで、下を向いてうなだれている。

「俺、最低だよな。小花に無理矢理……」

「いいの!」

 思わず力が入って大声になってしまった。朔也さんは顔を上げ、驚いた顔であたしを見る。あたしは真っ赤になった。自分の言ったことが信じられない。でも今更取り返せないし……。あたしはしどろもどろになりながらも、本当の想いを伝えた。

「あたし、全然イヤじゃなかったから」

 いっ、言っちゃった!

 朔也さんは一瞬面食らった顔になったあと、柔らかい笑みを見せた。それからあたしに向かって手を伸ばし、隣に座らせると肩を抱き寄せた。

「そんな風に優しいことを言ってくれるから、俺は小花に甘えてしまうんだ」

 朔也さんはあたしの頭に自分の頭をコツンと当てた。あたしの心臓はフル回転している。密着した朔也さんに心臓の躍動が伝わりそう。

「こ……これは、甘えてるの?」

 あたしに寄りかかる様にしている朔也さんに訊く。彼はクスッと笑うと頷いた。

「うん、甘えてるよ。すごく。特に今日は──イヤなことがあったから……」

 あたしはゴクッとつばを飲み込んだ。朔也さんの言うイヤなことってやっぱり……。

「もしかして、吉崎さんの……こと?」

 あたしはドキドキしながら質問した。朔也さんは硬直して口を引き結ぶ。

「見たよな。やっぱり……」

 そういうと朔也さんは憂鬱な顔でため息をついた。

「見えちゃったの。ごめんなさい」

 あたしが謝ると、朔也さんは首を振って苦笑した。

「小花は悪くないよ。謝る必要は全くない」

 朔也さんはそういうとあたしの肩をきつく抱き寄せた。あたしはためらったけど、吉崎さんのことを聞いてみることにした。