第六十八話  『雨の中のキス』


「でも何かあるにしても、それを暴く手立てがないよな」

 テーブルに頬杖をついて新が言う。朔也さんは、これにはうなずいた。

「本人が話してくれることが一番だけど、あの様子では簡単にはいかないだろう。例えばもし、真由が彼女に圧力をかけていたとして、その圧力が相当強いものだったら……いや、強いからこそ、何も話せないのかもしれない」

 新が忌々しげに息を吐く。

「それじゃ、被害届を出すしかねぇな。いくらなんでも警察に捕まるとなったら、本当のことを話すんじゃねぇの?」

「それはどうかな」

 朔也さんはまた考え込むように話し出す。

「俺だって小花をひどい目にあわせた奴を、警察に突き出したい気持ちはやまやまだ。でも彼女が捕まっても、警察は動機をそれほど深く追求しない気がするんだ。現時点でも彼女の言ってることは、一応筋が通っている。それに実際、小花に実害はなかった。

 昨日の柏木とか云う警部の様子だと、逸子は初犯だし反省もしてるし、できれば穏便に終わらせてやりたいと思っている感じだった。きっと彼女に、小花には金輪際近づかない、と一筆書かせるくらいで終わる可能性が高い。そうなると表面上の犯人は彼女で、裏で操っているヤツは野放しってことになる」

 朔也さんの意見を聞いて、新は腕を組んだ。そしてチッと舌打ちして「ったく、いつだって警察ってヤツは頼りになんねぇな」と言った。朔也さんがちょっと強い視線で新を見た。まるで警告するように。新は、おっと、という感じで口をつぐむ。それから頭を掻きむしった。

「なんか方法はないのかよ! あの女にホントの事をしゃべらせる方法がっ」

「俺にちょっとした考えがある。遠回りかもしれないけど……」

「なんだよ、その考えってのは」

 朔也さんはニヤリと笑った。

「そのうち話すよ。もしかしたら全く見当違いかもしれないし。まぁ、待っててくれ。いずれにしても、俺達はもう一度、柳田親子と会わなければならないと思う」

 朔也さんの言葉に、あたしたちはうなずくしかなかった。留夏はあたしのひざの上に来て大人しく本を開いていたけど、心配そうに顔をあげてあたしを見た。あたしは留夏の頭をなでた。お昼ごはんの後、お昼寝もしてしまったし、そろそろ外で遊んであげないと。

「オレ、バイトの時間だから行くわ」

 新が立ち上がった。朔也さんが夕食の用意をしてくれるというので、(今回の騒ぎのせいで当番があやふやになった)あたしは留夏と遊ぶことにした。

 外に出ると、空は梅雨らしくどんよりと曇り、いつ雨が降ってきてもおかしくない天気だった。それでも留夏と一緒に裏の林の小道で花を摘んだり、 バッタを捕まえたりしているだけで心が和んだ。

 夕方になって、雨がぱらぱら降ってきた。あたしは留夏を先に家まで帰し、散らばったバケツやシャベルを拾い集めてから家に向かった。雨はそれほど強くはなかったけど、雲が垂れ込め、止む気配はまったくない。あたしは小走りで小道を急いだ。

 中庭の芝生に入ったとき、駐車場から人の声が聞こえた。駐車場には見たことのない白い車が停まっていた。かなり大型の乗用車で、某大手自動車会社の高級車専用ロゴマーク『L』がヘッドについている。その車のそばにふたりの人影があった。

 ひとりは朔也さん。白いTシャツの雨に濡れた部分が暗い色になり、前衛的な模様が描かれているように見える。もうひとりは朔也さんより少し背の高い男性だった。濃紺のポロシャツに、ブラックジーンズを穿いている。スラリとした、人目を引くスタイルをしていた。その人が朔也さんの腕をつかんでいる。

 二人の様子は見るからにただならぬ感じだった。あたしは咄嗟に中庭の物干し竿の近くに立つ楡の木の陰に隠れた。覗くなんて悪いことかな、と思ったけど、見ずにはいられなかった。

「今回の件では、あんたはなんの役にも立たなかった」

 朔也さんの怒った様な声が雨音の中、あたしの耳に届いた。あたしは木の陰から、そっと顔を出した。相手の男性をよくよく見てみる。あの横わけの髪型──見たことがある。あたしは自分の記憶を呼び覚ました。あれは昨日パーティで会った吉崎さんだ。

「役に立ったか、立たなかったかは別問題だ。現に俺は、お前に言われた通りちゃんと妹さんと一緒にいただろ?」

 吉崎さんの声は、子供をあやすようでいて、どこか懇願するような感じもあった。朔也さんは腕を振り払おうとする姿勢で、吉崎さんを睨みつけている。吉崎さんは軽くため息をつくと、訴えかけるように朔也さんを自分の方に引き寄せた。

「お前の妹があんなことになってしまったのは、気の毒だと思ってるよ。でもあれは、俺の手には負えないことだった。どうしようもなかったんだ。違うか?」

 今度は朔也さんがため息をついた。諦めたように下を向く。

「ああ、あんたは悪くない」

「そうだ。だから約束通り、今回のお礼はちゃんといただくぜ」

 吉崎さんは掴んでいた朔也さんの腕を引っ張って、自分の方へ引き寄せた。朔也さんはよろめくように、吉崎さんの胸元へ近づく。あたしは呆然としてその光景を見ていた。

 朔也さんはもともと武道を習っていて、新でも絶対に敵わないくらい強いはず。いくら吉崎さんの方がガタイが良いといっても、本気で朔也さんが抵抗したら一瞬で蹴り飛ばしただろう。それが力を抜いて、相手のなすがままになっている。

 吉崎さんは朔也さんの頬に片手を添えた。そして下を向いていた朔也さんを上向かせると、自分の唇を朔也さんの唇に重ねた。

 キ、キ、キ……キスした!

 あたしは手から力が抜けて、持っていたバケツとシャベルを落としてしまった。芝生の上だったけど、ぶつかり合うバケツとシャベルの音が二人の耳に届いたらしい。朔也さんが吉崎さんに腕をつかまれた状態のまま、反射的にこっちを向く。あたしと朔也さんの視線がバッチリ合ってしまった。吉崎さんは相変わらず気だるげに、無表情のままあたしに視線を向ける。

「小花……」とつぶやいた後、朔也さんはキッとした顔で吉崎さんを振り返り、身をよじって腕を振り払った。そして手の甲でグイッと口を拭く。

「約束は守った。もう用は済んだだろ。帰ってくれ」

 朔也さんは下から見上げるように吉崎さんをにらみつける。雨に打たれた吉崎さんの表情はあまり変わらないように見えたけど、なんだかひどく寂しそうにも見えた。朔也さんは向きをかえ、あたしの方に歩いてくる。

「小花ちゃん」と吉崎さんがあたしを呼んだ。あたしは一瞬、返事ができなかった。

「昨日はひどい目にあったね。でも君に、何事もなくて良かった」

「あ、は……い」

 あたしは言葉が途切れがちな、間抜けな返事しかできなかった。朔也さんがあたしのところにたどり着き、まるで吉崎さんから庇う様にあたしの肩を抱いて胸元に引き寄せる。

「じゃあな、サク。また店に行くから」

 吉崎さんはそれだけ言うと、振り返って高級な車に向かった。朔也さんは苦々しい顔のまま、下唇を噛みしめて目をそらしている。バタンと車のドアが閉まり、エンジン音が響いた。車は滑らかにバックして、雨の中を駐車場から出て行った。