第六十七話  『お姫様みたいに』


 柳田逸子さんは父親らしき人とうちを訪れた。インターフォンに応えて朔也さんが玄関を開けた途端、その男性は土下座をした。

「このたびはうちの逸子が飛んでもないことをしでかして、本当に、本当に、申し訳ございませんでした」

 上背のある痩せぎすの男性は、這いつくばりながらブルブル震えていた。そんな男性を朔也さんはあくまで無表情で、新は冷たい視線で見下ろしていた。男性の後ろには背の高い女性が、背中を縮めて下を向いて立っていた。お父さんが頭を下げると、自分も深々と頭を下げる。顔は憔悴しきり、やはり小刻みに震えていた。

「頭を上げてください」

 朔也さんの声は、冷静で、感情が感じられなかった。

「謝っていただくのは結構ですが、こちらとしては事情をお聴きしたい。ここでは話しにくいでしょうから、どうぞなかへお入り下さい」

 父親の柳田氏は、ヨロヨロと立ち上がった。改めてよく見ると、年のころは五十代後半だろうか。スーツを着ていたけれど、新しそうな割には着なれていない様子で、どこかヨレッとして見える。確か柏木警部が営業の仕事をしていると言っていたけど、外回りで仕事をガンガン取ってくるというタイプではなさそうだった。

 柳田氏の後ろから玄関に入ってきた娘の逸子さんは、着古したようなブルーのシャツと、ジーンズを穿いていた。彼女はオドオドとした様子で家に上がった。横を通り過ぎる時、新がさりげなくあたしを背中にかばってくれた。朔也さんは先にたって、二人を応接間に案内した。

 あたしは応接間のソファで、朔也さんと新の間に座った。目の前のソファには、うちひしがれた様子の逸子さんと、厳しい表情の柳田氏が腰かける。

「今回の事は、大変申し訳ございませんでした。本当に……言い訳のしようがありません」

 柳田氏が深々と頭を下げた。逸子さんも少し遅れて、縮こまりながら父に習った。

「僕が聞きたいのは──」

 朔也さんは、相手の謝罪には対応せず、二人を見据えて言った。

「逸子さんが何故、妹にあんなことをしたのか、ということです。妹の小花は、逸子さんと面識はなかったはずです。例え何か理由があったにせよ、塩酸をかけるという暴挙に出ることを理解することが出来ません」

 朔也さんの視線を受けて、逸子さんは目に見えてビクリとした。肩をすくめて、下を向く。そのまま狼狽したように視線をあちこちに移し、一度ギュッと目を閉じてから、か細い声で話し出した。

「う、うらやましかったんです。小花さんがすごくキレイで、男の人たちに囲まれてて、なんか……お姫様みたいに見えたんです。なのに、なんであたしはこんななんだろうと思って……」

 逸子さんは震えながらとつとつと話す。あたしはどこか居たたまれない様な、奇妙な気持ちになった。逸子さんの賞賛の言葉は、ほんの数週間前のあたしには絶対に当てはまらないだろう。彼女があたしをそんな羨望のまなざしで見ていたなんて……今の自分でも信じられない。

「小花が羨ましかったから──それで持っていた塩酸をかけた、と?」

「は、はい」

 朔也さんの問いに逸子さんン短く答えて、そのまま黙った。

「つか、なんで塩酸なんか持ってたワケ?」

 新が逸子さんを見ながら訊いた。逸子さんは、またビクッとした。質問をした新に一瞬だけ視線を投げ、口元をこわばらせてすぐに下を向く。目を見開いたまま、膝の上に乗せた自分の握りこぶしを凝視していた。

「うちはもともと、町工場で金属を扱っておりまして、洗浄のための薬品を保管してあるんです」

 娘に代わり、柳田氏が答える。

「そこから逸子が、勝手に薬を持ち出したようです。工場の方は恥ずかしながら倒産してしまったのですが、なかを片づける暇がなくて、その……薬も放置している状態です。特殊な薬なもんですから、捨てるにも手続が必要でして……」

 柳田氏はスーツのポケットからハンカチを取り出して額の汗を拭いた。営業マンらしからぬ、皺くちゃのハンカチだった。話を聴いていた新は顎に手を当てる。

「うん、そうか。まぁ、薬品の入手経路は分かったけど、問題は持ち出した理由だろ? あんた……逸子さんは、いっつも塩酸を持ち歩いちゃってんの? 目に付く美人がいたら、すかさずまき散らしてやろうと思って?」

 全員の視線が逸子さんに注がれる。彼女はさっきと同じように一瞬視線を上げてから、またおびえたように下を向いた。

「こ、この子は普段まじめで、正直な子なんです。多分今回のことは出来心で」

「お父さんは黙っていて下さい」

 ピシャリ、と朔也さんがさえぎる。逸子さんは渋々視線を上げた。

「誰でも……良かったんです」

 朔也さんは目を見開いた。新はギュッと眉根を寄せる。

「綺麗な人なら、誰でも良かったんです。私……私、大学も辞めなきゃならなくて、うちも貧しくて、毎日つらくて、苦しくて……だから、恵まれた人なら誰でも良かったんです」

 言った後、逸子さんはキュッと口をすぼめ、また黙り込んでしまった。今度は下を向くことをせず、何だか脱力したようにぼんやりと前を向いた。その様子をジッと見ていた朔也さんが、不意に口を開いた。

「逸子さん、僕は本当の事≠ェ聞きたいんです」

 逸子さんは最初、何を言われているのか分からなかったように、ぼんやりした顔のまま朔也さんを見た。それから急に息を飲むと、こわばった表情で目を逸らす。彼女はまた視線を彷徨わせ、父親の顔を見た。柳田氏は怒ったお父さん≠フ顔で娘を見ている。

 逸子さんは、お父さんの視線を受け止めた。そして、泣きそうな顔になる。それも一瞬で、彼女は今までになく強い視線を朔也さんに向けた。

「い、今言ったことが、本当のことです」

 朔也さんは真っ直ぐ、逸子さんを見た。二人はそのまま、しばらく見つめ合った。逸子さんははじめ、必死で朔也さんの視線を受け止めていた。しかしやがて、根負けしたように目を伏せた。

 あたしは何か言うべき言葉を探したけど、何と言っていいのか分からなかった。よくテレビのニュースで誰でも良かったから人を刺した≠ネどと聞くけれど、そういう相手に言うべき言葉があるだろうか……。

 結局そのあとは、柳田氏がひたすら謝ることで時間が過ぎた。もちろん、逸子さんも一緒に謝ったが、これといった明確な動機はついに語られることはなかった。朔也さんは、今日の時点では被害届を出す出さないの判断はしない、ということでその場は解散になった。

 二人が帰ったあとも、どこか釈然としない思いがあたしたちの中に残っていた。居間に集まり、コーヒーを飲みながら落ち着いたものの、楽しくおしゃべりする気分じゃない。柳田親子との会合の間、優くんと待っていた留夏も居間に来たけど、重々しい雰囲気のせいかテレビをつけることもせず、静かに本を読んでいる。

「──兄貴さ」

 新が口火を切った。

「あの子に、本当のこと言って欲しいって言っただろ? あれってやっぱ、あの子が全部しゃべってないって思ったから?」

 下を向いていた朔也さんが、目を上げて新を見る。そして難しそうな顔で相槌を打った。

「ああ、そうだ。俺は逸子さんが、何か事情があって──例えば何らかの圧力があって、本当のことを言えないのかもしれない、と思ってる」

「圧力……」

 新はつぶやき、きらりと目を光らせて兄を見る。

「それじゃ、やっぱり真由が?」

 朔也さんは肯定も否定もせず、静かに口を開いた。

「軽率なことは言えないけど、なんらかの形で関わっている可能性があるとみてるよ、俺は」

 あたしはふと思い出した。あのパーティの日、あたしがトイレに行く前、真由さんは逸子さんと何か話し込んでいた。もしあれが、朔也さんの言う圧力≠セとしたら──。