第六十六話  『ヘアカット』


「──髪、塩酸の臭いがしない?」

 あたしは気になっていたことを訊いた。朔也さんはあたしの頭に鼻を近づける。

「……いや。あまり感じないけど。小花は気になる?」

「ずっと、まとわりついてるような気がする」

「そうか……」

 朔也さんはあたしの頭に手を当てて、また髪を撫で始めた。

「どうしても気になるようなら、もう少し髪を切ってみる……?」

「髪を?」

「うん、気分転換に」

 朔也さんは声のトーンを落とし、うるさくないように話している。細いのに筋肉質な腕や胸元をすぐ近くで感じながら、心臓の鼓動はペースを下げていく。朔也さんがそばにいてくれると、ものすごい安心感がある。朔也さんはあたしのおでこに唇を当ててから、そっと頭を撫でる。

「明日、晶子さんに連絡するよ。イヤなことは忘れよう」

 朔也さんはポンポンと軽くあたしの頭を叩いた。あたしは朔也さんのシルクのパジャマの袖をつかんで目を閉じた。でも一度覚めてしまったら、そう簡単に睡魔は訪れてきてくれない。あたしはこの機会に、パーティの時からなんとなく疑問に思っていたことを訊いた。

「朔也さんは、あの結婚式場で演奏することが前から決まってたの?」

「いや、違うよ。この前ドレスから針が出てきた時に、新と一緒にパーティで何かバイトが出来ないか式場まで訊きに行ったんだ。その時、ウェイターはひとりくらいなら雇えるって言われて……新にウェイターをしてもらうことにした。俺のピアノの生演奏はボランティアだよ。お金はいらないから、やらせて下さいって頼んだんだ」

「すごい……。あんなに急だったのに、よく断られなかったね」

「実はコネの問題なんだ。あそこの式場の敷地は白金家のものだからね。顔が利くんだよ」

「えっ? あの土地が? すごく広いよね」

 あたしは式場を思い出しながら言った。あの場所は広さも相当だけど、立地もかなりいい場所だ。繁華街の中にあるし、駅からも近い。

「そう。しかもうちはあれだけの立地にも関わらず、かなり良心的な金額で土地を貸し出してるからね。向こうとしても俺達のワガママを聞かないわけにはいかないんだ。それでも、あそこの年間の賃借料はかなりの収入になる。だから安心してお兄ちゃんに頼りなさい」

 朔也さんは軽く笑って言った。狭いベッドの中で朔也さんの低い、優しい声を聴くのは耳に心地いい。今度は本当のあくびが出てしまった。朔也さんがまた、あたしの髪を撫でる。

「さぁ、もう眠って」

「う……ん。朔也さんも……ね」

 眠気が襲ってくる。空調の低い作動音を聞きながら、手足が重く身体がベッドに沈んでいく感覚が強くなる。今この瞬間、誰もあたしを傷つけない。そう思ったら、ストンと眠りに落ちていった。




「小花ちゃん、大変だったわね」

 会うなり晶子さんが泣きそうな顔で言った。手を広げてあたしを抱き寄せてくれる。

「ツラい目に遭っちゃったわね。もう! やった奴をブッ飛ばしてやりたいわ」

 晶子さんが物騒なことを言うので、あたしは思わず吹き出してしまった。

「今日はすみません。うちまで来ていただいて……」

 あたしはお礼を言った。晶子さんに朔也さんが、あたしが髪を切りたがっていると連絡をしたら、わざわざ家まで来てくれたのだ。あたしがまだショック状態から抜けていないだろうから、外出しなくてもいいようにという配慮かららしい。

「いいのよ。今日のわたしのお客さんは十時半からだから、今なら余裕があるの。ていうか、お店の事は全部正悟に任せてきたわ」

 晶子さんはなんとなく、意味深な笑いを見せる。

「正悟ったらね、小花ちゃんのこと、すごく心配してたのよ。白金家に行くって言ったら、あたしに付いて来そうなくらいだったわ」

 うふふ、と笑っただけで、晶子さんはそれ以上何も言ってこなかった。あたしはホッとしてしまった。正悟さんが心配してくれるのは有難いけど、今はそういうことを考えている心の余裕がなかった。

 居間に大きなブルーシートを敷き、その上に台所の椅子を乗せた。晶子さんは髪をカットする道具を全て持って来てくれていた。髪を濡らし、肩からカットクロスを掛けてくれる。留夏がドアから顔を出した。ラディを抱いてこっちを心配そうに覗き込んでいる。

「留夏、お姉ちゃんこれから髪を切るからね。ラディと一緒にちょっと待っててね」

 あたしが言うと留夏は不満そうに口を尖らせた。

「留夏、そっちの部屋に入ると髪の毛だらけになるよ。こっちで待っていようね」

 朔也さんが助け舟を出してくれた。今日は日曜なので朔也さんの仕事はお休みだ。午後から昨日あたしに塩酸をかけた柳田逸子さんが来ることになっている。朔也さんは早速、昨日柏木警部から教わった電話番号に電話をかけ、連絡を取ってくれたのだ。

「どれくらい切る? もう少し短くして全体的に雰囲気を変えてみようか」

「あ、はい」

 髪型は晶子さんにお任せすることにした。この前切ったばかりだけど、またさらに髪が短くなっていく。ついこの間までのあたしとは大違いだ。それでも、髪を切ってスッキリしたかった。

 カットは一時間ほどで終わった。髪型は、両サイドを少し短めして、後ろにかけて長めになっていた。前とはかなり印象が違って見える。意外にも、自分に似合っているような気がした。あんなに長い髪が好きだったのに……うそみたい。

 気のせいかも知れないけど、まとわり付くように残っていた塩酸の臭いも軽くなった気がする。あたしはホッとした。髪を切るって気分転換になるんだなぁ。

 ブローも全て終わり、切った髪の始末を晶子さんと一緒にやった。朔也さんが居間に来てくれる。彼はすぐさま「いいね、似合ってる。可愛いよ」と言ってくれた。お世辞かもしれないけど嬉しい。

 留夏はニコニコしながらあたしの方に駆け寄ってくる。あたしは留夏を抱き上げた。留夏は笑顔であたしの頭を撫でる。どうやら似合うよ≠ニ言いたいらしい。あたしは留夏をギュウッと抱きしめた。留夏も嬉しそうに頬を摺り寄せてくる。

「サク兄、例の柳田って人から電話が来たぜ」

 新が電話の子機を持って居間に来た。新の髪の色は元に戻っている。流すと落ちるタイプの髪染めを使ったらしい。結構黒も似合っていたからちょっと残念だった。

「何時頃着くって?」

「二時くらいにここに来るって。兄貴は休みだろ。オレも今日は夜のバイトだから同席できる」

「そうか。分かった」

 朔也さんは少し難しい顔になった。

「小花、柳田さんとは会えそうかい?」

 朔也さんは心配そうな様子だったけど、あたしはすぐに「うん。大丈夫」と言った。

「そう。まぁ、相手がこの場で小花に危害を加えるようなことはないと思うけど……。まだ信用できないからね。俺と新のそばにいたほうがいい」

 あたしはうなずいた。柳田逸子さんは昨日初めて会って、一言も話したことのない相手だ。何故あんなことをしたのか……。理由を知りたいような、知りたくないような、複雑な心境だった。どんなひとなのだろう。先入観を持ちたくないけど、まともな話が出来る相手なのだろうか。

「頑張ってね!」

 晶子さんは、あたしたちに向かってガッツポーズをして帰っていった。あたしは不安と緊張で、お昼ご飯もあまり食べられなかった。

 朔也さんはすごく心配してくれた。なんでもいいから食べられるものがないか、何度も聞いてくれた。でもやっぱり食欲はわかず、時間までずっと留夏の相手をして過ごした。