第六十五話  『傷つかずに』


「ええと……。少しさっきのこと思い出しちゃって、上手く眠れないの」

 あたしはなるべく深刻にならないように、笑いながら伝えた。でも朔也さんは先刻よりもっと心配そうな顔になってしまった。

「ツラい目に遭わせてしまって、悪かった」

 朔也さんに言われて、あたしはポカンとしてしまった。な……なんか朔也さん、あたしに謝ってる? あたしは急いで首を横に振った。

「そんなっ……。朔也さんのせいじゃないよ。あれは誰にも、どうにも出来なかったことでしょ?」

「いや。最初から小花をパーティになんか行かさなければ良かったんだ。ドレスに針が見つかった時点で参加を取りやめることにしておけば──。小花は行けなくなった、と真由に伝えていれば、こんな目に遭わなかった。おれの判断ミスだ。すまない」

 朔也さんはあたしに向かって頭を下げる。「やめて」とあたしは言った。

「朔也さんのせいじゃないってば! あたし、パーティ楽しかったよ。ご馳走もたくさん食べられたし、綺麗なドレスも着せてもらえて、夢みたいだった。今までのあたしじゃ考えられないことだもの。だから朔也さんに感謝してるよ」

 朔也さんはゆっくり顔を上げた。目がうっすら赤い。朔也さんはあたしを真っ直ぐ見つめ「小花」と改まって言った。

「ひとつ頼みがあるんだ。──イヤかもしれないけど」

「なに?」

「小花の躰を見せてほしいんだ。キズが残ってないか、ちゃんと確認したい」

 あたしは目を見開いて絶句した。躰って……。え? 脱ぐの?

「ごめん。失礼な頼みだってことは分かってる。でもどうしても確かめたいんだ」

 朔也さんは悲痛な顔で懇願する。痛々しいほど真剣な表情なのに、あたしは不謹慎にもすごく色っぽいと思ってしまった。それにしても……いくら兄とはいえ、こんな素敵な人の前で裸になるの? しかもここはベッドの上だし。

「──うん、分かった」

 あたしは答えた。最初から答えなんてひとつに決まってる。あたしには、朔也さんの頼みを断るなんてできない。

 あたしはパジャマのボタンに手をかけた。自分の頬が赤くなっているのが分かる。まずパジャマを脱いで、キャミソールだけになる。あたしは朔也さんに背中を向けた。朔也さんはベッドの上に座る。彼の前で、キャミソールの肩ひもを片方ずつ下に降ろす。あたしは寝るときブラをつけないので、いま背中が丸見えになってるはず。ううう、恥ずかしい。

 朔也さんは背中にかかるあたしの髪の毛をそっと指で掻き分けた。しばし、音のない時間が続く。じっと見られているのが分かる。さっきよりも顔が火照ってくる。

「大丈夫だ。なんともない」

 そっと朔也さんが言った。あたしはホッとした。朔也さんはフーッと長く息を吐く。次の瞬間、あたしは自分の背中に信じられない感触を感じた。朔也さんは自分の額をあたしの背中に当てた。少しの間、そのままじっとしていた。それから額を離し、次は唇を当てたのだ。その感触は柔らかで、暖かかった。

 朔也さんは唇を離すと、今度はまた額を当てる。「良かった……」と彼がつぶやく。それと同時に、冷たい水のしずくが──涙のしずくが一粒、あたしの背中をつたった。

「……なんとも無くて良かった。俺はもし小花に傷が残ったら、自分も塩酸をかぶろうと思ってた」

「ええっ!?」

 あたしはもう、ビックリ仰天してキャミソールをズリ落とした状態のまま振り返ってしまった。朔也さんは一瞬目を見張ると、赤くなって横を向く。あたしはアタフタして大急ぎでパジャマを着た。

「なんでそんなこと……!」

 改めて朔也さんに向き直り、ベッドの上に正座して訊く。朔也さんは思いつめたような表情であたしを見返した。

「俺は……」

 一度視線を下げてから、朔也さんは正面からあたしを見た。長いまつげに潤んだ瞳……。あまりの美しさに圧倒されてのけぞりそうになった。なんという迫力! これはもう、吉崎さんどころではないインパクトがある。

「小花に傷ついてほしくないんだ。小花が誰かに傷つけられたり、ツラい思いや苦しい思いをすることが許せない」

「朔也さん……」

「無理なことだとは分かってる。傷つかずに生きていける人間なんていないから。でも、小花にはできる限り、余計な痛みを感じてほしくない」

 朔也さんは下を向く。

「今回のことは俺の不注意だった。ちゃんと小花を守るための対策を取ったつもりでいたのに、結局守りきれなかったんだから」

「それは……違うよ。結果的にあたしは怪我も何もなかったんだし」

「でも眠れないんだろ?」

 心配そうに言われて、あたしは大慌てで否定した。

「そんなことないよ。うん、もう眠くなってきた」

 朔也さんは疑わしい目であたしを見る。あたしは頑張って笑顔を返し、あくびまでして見せた。朔也さんはひとつため息をつく。

「ここにいていい?」

 上目遣いで言われて、思わず赤面する。でも実際、朔也さんがいてくれると安心するかも。ひとりになると色々思い出しちゃうし……。朔也さんは部屋の電気を豆球にすると、ベッドの横に座ってひざを抱えた。

「ゆっくり眠って。ここにいるから」

 その言葉を聴いて、フッと体の力が抜けた。しばらくモゾモゾしていたけど、段々全身がだるくなってくる。目を閉じると、いつの間にか夢の世界に引き込まれていった。




 あたしは軽く悲鳴をあげて目覚めた。引き込まれた夢の世界は、トイレの出来事の再現だった。塩酸の冷たい感触や、強い酸の臭いまでリアルに感じられた気がした。胸に手を当てて荒い息をつく。

 「どうした?」という声が聞こえた。朔也さんは、あたしが眠った後もまだいてくれたらしい。あたしはすぐに返事ができなかった。心臓は跳ねるように早く動き、首筋には汗をかいている。朔也さんの大きな手があたしの額に当てられた。

「大丈夫か? 怖い夢でも見た?」

「う、うん……」

 それしか答えられなかった。手が小刻みに震える。朔也さんはあたしの髪をゆっくり撫でてくれた。しばらくすると、だんだん落ち着きを取り戻した。

 カーテンの隙間からは光りらしきものはもれて来ず、まだ真夜中なのだと分かる。豆球の灯りに照らされた部屋のそこここに、夜の闇が沈んでいる。何時なのか分からないけど、朔也さんはずっと起きていてくれたのだろうか……。

 今日は朔也さんにとっても大変な日だったはず。それなのに、あたしのベッドの横で座っていては身体を休めることが出来ないだろう。

「朔也さん、ありがとう。もう大丈夫だから、部屋で眠って」

 あたしがそう言っても、朔也さんは髪を撫でる手を止めなかった。

「小花が眠るまでここにいる」

 低く静かな声で、きっぱりと朔也さんは言う。こうなると、引き下がるつもりはなさそうだ。あたしは観念して目を閉じた。しばらくそのままでいたけど、やっぱり朔也さんが眠れないのが気になる。あたしは目を開け、髪を撫でる朔也さんの手に自分の手を重ねた。

「ごめん、邪魔だった?」

「ううん、違うの。朔也さん、こっちに来て」

「──え」

 朔也さんは驚いたようだ。実際、言ったあたしが一番驚いている。でもこのまま朔也さんが休めないのは嫌だった。それにどうせ、時々一緒に寝てるんだし。

「こっちで横になって」

 あたしは掛けていた薄掛布団を横にはだけた。体を横にずらし、ベッドの上にスペースを作る。朔也さんは何故かためらっている。……もう、いつも勝手に入って来るくせに。

「朔也さんも、ちゃんと眠って。……お願い」

 このおねだりは効いたようだ。朔也さんは一度立ち上がり、ためらいがちにあたしの横に入ってくる。あたしの精神はきっと、かなり高ぶっているんだろう。自分の大胆とも思える行動に、心臓は痛いくらいドキドキしていたし、ほっぺもかなり火照っていたけど、もっと思い切ったことをするのに躊躇はなかった。

 あたしは隣に横たわった朔也さんの腕の中に、自分から入って行った。朔也さんはどう思ったのか分からないけど、包み込むようにあたしを胸に抱きとめ、腕枕までしてくれた。