第六十四話  『眠れぬ夜』


「それでですな、こっからが一番肝心な話なんですが、今回の件で被害届は出されますか?」

 柏木警部があらたまった顔であたしに訊いた。

「被害届?」

 あたしは訊き返した。

「そうです。もしあなたが我々警察の方に被害届を提出されますと、私らは彼女からもっと詳しく事情を聞くことになります」

「えっとそれは……逮捕されるってことですか?」

「逮捕ではなく、この場合は検挙ってことになりますかな。彼女は署に連行されて、詳しく取り調べをされるということです」

「カツ丼コースってやつだな」

 新がつぶやき、朔也さんにまた睨まれる。あたしはゴクッとつばを飲んだ。連行される──。その言葉はサスペンスドラマを通り越し、恐ろしいほど現実味があって、なんだかすごく怖く感じた。あたしが被害届を出せば柳田逸子さんは警察で取り調べを受けるんだ……。

「あの……、とりあえず、保留にしておくことはできますか?」

 柏木警部は組んでいた脚を崩し、ホッと一息吐いた。

「できます。それで、もし差し支えなければ、本人が謝りたいと申し出ているので会ってやってくれませんかね? 飛んでもないことをしてしまったと、かなり反省しているのでね」

 柏木警部の言い方は、どこか懇願するような感じがした。あたしは「はい、分かりました」と返事をした。

「では都合の良い日に、この番号へ連絡してください」

 警部は手帳を取り出し、若い刑事が告げた電話番号を手帳に書き写した。ビリッと音を立てて手帳を一ページ破り、あたしに向けてそれを差し出す。あたしはメモを受け取った。二人の刑事は帰り際に「何かあったらこちらに連絡ください」と言って、名刺をおいていった。これで警察の事情聴取は終わった。

 その後あたしは医師の診察を受け、特に問題がないという診断を受けたので、家に帰ることになった。あたしのドレスは式場に置いてきてしまったから、病院で着ていたのは検査着だった。健康診断で着たことのある、前を紐で縛るタイプのものだ。もちろんそれで帰るわけにはいかないので、ニノさんが持って来てくれた自分の服に着替えた。

 それから兄二人と、ニノさんと一緒に病室から廊下に出た。ナースステーションの前を通る時、女性の看護師さんがたくさん集まっていて驚いた。歩いてくるあたし達をチラチラ見ながら、ヒソヒソ話をしている。「ほら、あれが美形兄弟……」とささやく声が聞こえた。

 朔也さんが微笑を浮かべて「お世話になりました」と挨拶すると、みんなは赤くなってざわついた。なかには身体をしならせながら、「お大事に〜」と言って手を振る看護師さんもいる。サービス精神旺盛の新が、手を振りかえして「じゃーね、おねえさんたち。バイバイ!」と言う。また黄色い声が上がる。

 複数の熱い視線を受けながら、あたしたちは病院をあとにした。駐車場に着き、あたしは新と一緒に朔也さんの運転する車で帰路に就いた。ニノさんは時間も遅いので、そのまま自宅に戻った。白金家に着いた時は、午前零時を回っていた。居間には電気がついており、優くんが起きて待っていた。優くんは腕にラディを抱いて心配そうに出迎えてくれた。

「あの……お姉さん、大丈夫?」

 優くんは躊躇いがちに、あたしに聞いた。あたしは優くんからお姉さんと呼ばれたのは初めてで、ビックリしたのと同時に、すごく嬉しかった。

「うん。大丈夫だよ。今日はこんな遅い時間まで、家のことと留夏のこと任せちゃってごめんね」

 あたしが言うと、優くんは黙って首を横に振った。それから「なんでもなくて良かった」と言った。あたしは「ありがとう」と返した。優くんは少し笑うと、自分の部屋へ戻って行った。口下手で、なかなか人前に出てこない子だけど、ちゃんとあたしのことを気遣ってくれてるんだな、と分かって胸があったかくなった。

 あたしは帰ってすぐにお風呂に入った。服を脱いだとき、どこか火傷でもしてしまった場所はないか、ザッとチェックしてみた。とりあえず、目に見える場所には何も無かった。お湯を浴びる時はピリピリするんじゃないかと思って、少し怖かった。

 ぬるま湯をそっと浴びても違和感は無かったけど、髪を洗うとき、なんだか酸の様な臭いがした気がした。髪も少しゴワついているようで気持ち悪い。何度かシャンプーをして、気分をスッキリさせようとした。それでもドライヤーで乾かした時の手触りが、いつもと違う気がした。気にしすぎかな……。

 お風呂から出て、あたしは兄二人にあらためてお礼を言った。「なんとも無かったか?」と新が訊いてくる。

「うん。でもなんか……髪がゴワゴワする気がするんだ」

 そう言うと、新はあたしの髪に手を伸ばし、指で梳く。

「そうかぁ? パッと見よくわかんねぇけどな」

「気持ちの問題かも」

「そうだな。イヤな目に遭っちまったもんな。でも無事だったんだし、あんま気にすんな」

 新があたしの肩を抱いてポンポンと叩く。朔也さんはどこか悲しげな瞳であたしをじっと見つめていた。朔也さんはあたしの頬に片手を当て、「今日はゆっくりお休み」と言った。

 新はあたしの頭を撫でながら「怖かったら兄ちゃんが添い寝してやるからな」と言い、朔也さんに頭をひっぱたかれた。「なんだよ。兄貴だってたまにしてるだろ」と新が反論する。

「お前は絶対、添い寝だけじゃおさまらない」

 朔也さんに断言されると、新はチッと舌打ちした。どうやら図星だったようだ。あたしは兄たちにおやすみの挨拶をし、自分の部屋に行った。

 部屋でひとりになると、静けさが妙に重苦しく感じた。今まで周りも、自分の心も物凄く騒がしかった気がする。突然迫ってきた静寂が、耳に浸みるように痛い。

 あたしは一度寝ようとして電気を消してみた。でも暗闇が急に怖くなって、また点けてしまった。普段は暗い場所が怖いことなんてないのに……。心臓がドキドキする。

 あたしは何度も深呼吸したあと、廊下に出て留夏の様子を見に行った。留夏は自分の部屋でグッスリ眠っている。あたしは留夏のほっぺたにそっと手を当てた。留夏はビクともしないで深い寝息を立てている。丸みをおびたスベスベのほっぺを触っていると、ホンワリと気持ちが和んだ。あたしは留夏に救われているんだな、としみじみ思う。

 部屋に戻り、今度こそ眠ろうとしてベッドに入ってみる。だけどやっぱり目がさえていて、眠気はまったく襲ってこない。思った以上に神経が高ぶっているみたい。仕方が無いので、ベッドに半身を起こして雑誌をパラパラめくった。でも、内容はあまり頭の中に入ってこなかった。

 コンコン、とドアをノックする音がする。「はい」と返事するとドアが開いた。ドア口から顔を覗かせたのは、朔也さんだった。

「電気が点いてたから……。少しいい?」

「あ、うん」

 返事をしてから、あたしは朔也さんの手を見た。右手の小指側の、平から甲にかけて半分くらいに湿布を貼っている。

「その手どうしたの? まさか怪我しちゃったの?」

 あたしはハラハラして訊いた。今回の騒ぎでケガをしてしまったのだろうか。

「ああ、これ? 今日、あの子の持ってたビンを叩き落とした時、手を使ったから大事を取ってね。俺はピアノ弾きだから武道をやる時は足技しか使わないんだけど、あの時はスカートを穿いていたから、つい手で叩いちゃったんだ。これは念のためにしてるだけだよ。全然痛みはないし、大丈夫だからね」

 あたしは少しホッとした。傷みがないなら良かった。朔也さんはベッドの横まで来て、ラグの上に片膝を立てて座った。

「気分はどう?」

 心配そうに朔也さんが訊く。シャワーを浴びて、黒いシルクのパジャマに着替えた朔也さんは、艶やかで王子様みたいに美しい。

 あたしは不意に吉崎さんを思い出した。背が高く、スマートで迫力のある美形だった。魅力的な男性、という点では吉崎さんも相当だと思う。

 でもやっぱり朔也さんは素敵だ。顔かたちだけでなく、朔也さんには彼にない清らかさがある。そして底知れない優しさも……。こうして目の前にいるだけで、胸が締め付けられるような、切なくなるような想いがつのってくる。