第六十三話  『事情』


「それで、小花さんがトイレに向かったのは、何時くらいでしたか?」

 柏木警部に訊かれ、あたしは答えに詰まった。はて、いったい何時頃だろう……? トイレに行った時間なんか、わざわざ確認しなかった。

「パーティが始まって、一時間くらい経った頃だと思うんですけど……」

 あたしが自信なさ気に言うと「七時四十分頃です」と朔也さんが答えた。柏木警部は朔也さんの方を向く。

「ぼくはパーティ会場でピアノの演奏を担当していました。ちょうど前半の演奏が終わったので、休憩のために舞台から離れたんです。演奏者控え室に行こうとしたところで、小花が廊下を歩いているのを見かけました。そうしたら小花の後ろを歩く、ブルーのドレスを着た女性の様子がおかしいと気付いたんです」

 柏木警部はキラリと目を光らせる。

「様子がおかしいというのは? どんな感じでしたかな」

「そうですね……。キョロキョロ周りを見渡していて、凄くビクビクしているようにも見えました。神経質そうというか……」

「なるほど。それであなたは?」

「ぼくは二人の後を追いかけました。小花が先に女子トイレに入って、彼女は出入り口の外で立って中の様子をうかがってました。その時バッグの中に手を入れていて……。少ししてその子がトイレに入ったので、ぼくは急いで後を追いかけました。彼女が個室のドアの上に手を伸ばして、手に持っていたものをひっくり返したのが見えました。

最初ぼくは、彼女が手にしているのがなんなのか分かりませんでした。それが茶色いビンで、昔学校の理科室で見た薬品を入れる容器ようなものだなと思って……。咄嗟に彼女の手からビンを叩き落したんです」

「ふむ、それでビンの中身が塩酸だと分かった?」

「あの時真由が硫酸よ≠チて叫んだよな」

 新が口を挟んだ。柏木警部は新に視線を移す。

「あんたさんもその場にいたんですか?」

「オレ? ああ、いましたよ。オレはパーティ会場でウェイターのバイトをしてたんで。食器を下げる為に廊下に出た時、兄貴の後姿を見かけました。なんか兄貴が女子トイレに向かってコソコソ歩いてるんで、こりゃ、覗きでもするんじゃないかと思って、ヘンタイ行為を止めようとして兄を追いかけました」

 朔也さんが新を睨む。新は全く表情を変えずに兄の視線をスルーした。

「その時、末の弟のイトコの真由がパーティ会場から出てきて、兄の後を追うようにして小走りになっているのを見たんです。そしたらトイレで女の叫び声が聞こえて……真由がダッシュでトイレに向かっていったんです。続けて真由が『硫酸よ』と叫んだのが聞こえました」

「硫酸……。なぜその──真由さんというひとは、薬品が硫酸だと思ったんでしょうね?」

 質問には、新に代わって朔也さんが答える。

「よく、分かりません。薬のビンにはラベルが貼ってありましたけど、日本語表記の部分が破れていたんです。こう無理矢理、横に向かってビリッと剥がし取られていた感じでした。そのせいで下に書かれていた英語表記の文字だけしか読めませんでした。多分、イトコの真由は塩酸と硫酸の英訳を覚え間違ったのではないかと思います」

「じゃあ、塩酸だと分かったのは?」

「ぼくが英語表記を読みました。硫酸だったら水をかけてはいけない、と学生時代に習ったので……。あれがもし硫酸だったら、小花の状態はもっとひどい事になっていたと思います。でも塩酸だった。だからひたすら水で流しました」

「ふぅむ……そうですか。まぁ大体のところは分かりました」

 柏木警部は腕を組んでうなずく。そしてあたしに視線を移す。

「小花さん。あなたはその塩酸をかけた人とお知り合いですか?」

 あたしは即座に首を横に振った。

「いいえ、知りません。今日初めて会いました」

「初めて?」

「はい。真由さんのお友達だということは聞きましたけど、特に紹介もされなかったので、名前も知りません」

「そうですか。名前も知らん、と……」

 柏木警部はボリボリ頭を掻いた。それからチラッと竹下刑事に視線を向ける。

「彼女の名前は柳田逸子(やなぎだいつこ)といいます。年齢は二十歳。先月まで大学生でしたが今は中退しています。現在は特に職にもついておらず、家事手伝いです」

 若い刑事さんが手帳を見ながら言う。「中退?」と朔也さんが訊きかえした。

「そうです。どうも家庭の事情で、大学に通えなくなったそうです」

「家庭の事情って? なに?」

 今まで黙って聞いていたニノさんが口を挟んだ。腕を組み、難しそうな顔をしている。

「父親の経営していた会社が倒産したそうで、彼女も大学に通うどころじゃなくなったらしいんですわ」

 柏木警部がため息混じりに言った。なんだか、その柳田逸子さんに同情しているように見えた。

「その割にはパーティになんか出て、ずいぶん余裕なんじゃない? しかも家事手伝いって……。仕事はどうしたの?」

 ニノさんが渋い顔で言う。柏木警部はいすの上で脚を組みかえ、同じように渋い顔でニノさんを見返す。

「彼女の母親の調子が悪くて、ついこの間までやっていたアルバイトを辞めざるを得なかったんです。いまは毎日、家で小さい弟たちの面倒を見ているようですよ。パーティは気分転換に、と友達から誘われたので出たと言ってます。家事もあるし、病気の母親の面倒は見なきゃいけないしで、彼女も大変だったんでしょう。今日は家に伯母さんに来てもらって、久しぶりに青春を謳歌しようとしたらしいです」

 警部さんは気の毒そうな様子で言ったけど、ニノさんは渋い顔を崩さなかった。

「そりゃ大変なのは分かるけど、青春を謳歌するのになんでひとに塩酸をブッかけなきゃならないワケ? とりあえず害が無かったから良かったものの、傷跡が残ったり、失明しちゃったりした可能性だってあったんだからね!」

 ニノさんの声は怒りに満ちていた。警部は丸っこい手で、またボリボリ頭を掻く。

「まぁ、そうですな。そこなんですわ。問題は」

 柏木警部の声は落ち着いていた。多分、こんな風に怒りまくる人の対処などお手の物なのだろう。

「私らと会った時、本人は最初呆然としておりました。質問しても、『何も知らない』の一点張りです。でもしばらくしてからボロボロ泣き出して、何度も何度も謝るんです。ごめんなさい、ごめんなさい。私はなんで自分がこんなことをしたのか、分からない。せっかく入った大学も辞めなければならなくて、毎日の生活が苦しくて、自分の精神状態は普通じゃなかった、と。あと、綺麗に着飾っている人が羨ましかったと言ってました。何にも悩みがなく、幸せそうに見えた、と……」

 一瞬その場がシン……、となった。ニノさんは眉根をよせたまま、視線を下に向けた。

「彼女の父親は、金属加工の会社をやっていたそうです。実直な職人さんだったと言ってました。でもこの不況で会社がつぶれてしまって、工場は動かない。いま父親は知り合いのつてを頼って、職人とはかけ離れた営業の仕事をしているそうですよ。前の工場内には、部品を洗浄するための薬品がたくさん残っていて、そのまま放置されているようです。彼女はいつの間にかその薬品の中から塩酸を手にしていたと話しています。手に取ったところまでは覚えてるけど、バックに入れた記憶は曖昧だと」

 新が鋭く息を吐く。

「それで、隙あらば誰かにそれをブッかけようとしてたってか?」

「それは……解かりません。今はただ、ごめんなさいと謝ることしかしないもんで」

 あたしたちはそれぞれ黙って考え込んだ。朔也さんがあたしの手をギュッと握ってくれる。あたしはパーティ会場で会った、真由さんの友達のことを思い出した。背の高い子といっていたから、多分青いドレスを着ていた人だ。会場ではあんなに楽しそうに笑っていたのに……。