第六十一話  『イノセント』


「……様子はどうだ?」

 朔也さんの低い声が聞こえて、あたしは意識を取り戻した。病院に搬送されたところまでは覚えているけど、そのあとは記憶がぼんやりしている。

 涙が止まらなかったから、安定剤らしきものを処方されて飲んだことを思い出す。薬のせいで眠ってしまったのだろう。「今は寝てる」と新が答える。

「色々処置や検査をされたけど、特に異常は見当たらないってさ。誤って塩酸を浴びた時なんかは最初の処置がキモらしいけど、水で流したのは的確だったって。特にバケツの水を一気にぶっかけたのが効いたみたい。あれ、外側に防火用水って書いてあったから、ちゃんと水を溜めといてくれた式場側に感謝だな」

「うん、助かった。お前の機転も良かったよ」

「でも小花のショックはデカいわな。こいつ、ずっと泣いてたぜ。ただ、騒いだりわめいたりはしなかった。小花は……我慢強いな」

「──ああ、そうだな」

 それからしばし、二人は無言でいた。あたしは目を開けようとしてみた。でも、もし見えなかったら──と思うと、どうしても開けられない。

「……兄貴さ、家に戻ったの?」

「いや、戻ってないよ。式場で着替えて直接来た。小花の荷物と、ドレスも持ってきたよ。ドレスは、変色してた」

「そっか。小花によく似合ってたのに……」

「うん、残念だけど……。でも小花が無事で良かった。新、お前もズボンの裾がびしょ濡れだろ。着替え持って来たぞ」

 朔也さんの声と同時にカサカサした音が聞こえた。ビニール袋に入った新の着替えを渡しているみたいだ。「サンキュ」と答えて新が病室から出て行く。

 そっとドアが閉められる音が聞こえ、次は椅子に腰かけた時のきしんだ音が聞こえた。あたしはベッドの近くに座った朔也さんに手を伸ばした。

「小花! 目が覚めたのか?」

 朔也さんはすぐに手を握ってくれた。あたしはうなずいた。それでも目を開けることが出来なくて、目じりから涙がこぼれ落ちた。

「どうした? ……どこか痛いのか?」

 朔也さんの声が緊張をおびる。あたしは首を横に振った。

「小花──目を開けられないのか?」

 焦った声で朔也さんが訊く。

「……怖いの」

 あたしは答えた。塩酸の刺激臭を吸い込んだせいで、咽喉がいがらっぽい。でもとりあえず、かすれた声は出せた。

「怖い? 目を開けるのが?」

 朔也さんはあたしのおでこに手を置いた。あたしはうなずく。

「先生の診断では、異常は見受けられないと言ってたよ。ちゃんと目の洗浄も行ったと」

 朔也さんはつとめて冷静な声で告げる。あたしはそれを聞いてホッとしたけど、もし医者の見立てが間違っていたら……と思うとやっぱり目を開ける勇気が出なかった。

「……小花」

 そっとささやいて、朔也さんはあたしの上半身をベッドに起こしてくれた。それから、両手で あたしの頬を包んだ。

「小花、目を開けてごらん。ゆっくりでいいから」

 朔也さんが優しく言ってくれる。あたしは涙が止まらないまま、首を横に振った。

 だって……だってもし、見えなかったら? 少しでも塩酸が入ったかも知れない。歪んで見えたり、ぼやけていたりしたら、どうしよう。涙がどんどん溢れてくる。いくらあたしが馬鹿でも、目の中に強い酸が入ったらどうなるかくらい分かる。視力が著しく低下したり、最悪、失明になる可能性もある。

「小花、小花、大丈夫だよ。目を開けて。俺を見て」

 朔也さんはあたしの顔のすぐ前で諭すように言う。あたしも朔也さんの綺麗な顔が見たい。でもその美しい顔がきれいに見えなかったら……?

「小花。俺を信じて。小花は大丈夫だ。小花の目を俺に見せて」

 朔也さんはあたしのおでこにそっと口づける。あたしは誘われるように、ゆっくり目を開けた。ギュッと閉じていたせいで、最初かすんで見えた。何度かまばたきしてから、 今度こそしっかり目を開ける。

 目の前に朔也さんの顔がハッキリ見えた。朔也さんは少し眉をひそめて、心配そうにあたしの顔を覗き込んでいる。

「見える……?」

 小さな声で、いたわる様に朔也さんが聞いた。

「──うん。見える」

 あたしは答えた。朔也さんは目の前で嬉しそうに、ニッコリ笑った。

「ほらね。大丈夫だって言っただろ」

 あたしはその柔らかで優しくて、花のように美しい笑顔を見て、ドッと涙があふれてきた。朔也さんはあたしを抱き寄せると、腕の中にギュッと抱きしめる。あたしは朔也さんに抱きついた。とにかく安心して、嬉しくて。

「……無事で良かった。ほんとに」

 朔也さんがつぶやく。あたしは朔也さんの胸に頬を押し付けた。朔也さんはますます強くあたしを抱いた。

 病室の引き戸が、ガタンと音を立てて横にスライドした。新は入ってきた途端、凍りついたように固まる。それからすぐムッとして「何してんだよ。やらしいな!」と言った。朔也さんは腕の力を少しゆるめたけど、あたしを抱いたまま新を睨んだ。

「別にやらしくなんかない。小花の目がきちんと見えたから、一緒に喜んでただけだ」

 朔也さんの説明で、新はホッとした顔になった。

「目は大丈夫か! そうか。それは良かった」

 新は心底安心したように言ってから、兄に向かってシッシッと手を振る。

「それなら、オレもお祝いに参加するぜ。そこどけよ」

「なんでだよ」

 朔也さんはあたしを庇うように背中に隠す。新はそんな兄にグイグイ迫る。

「オレも小花と抱き合って喜びを分かち合うの。ほら、チェンジ!」

「お前はいい」

「なんだよ、それ? なんで兄貴は良くてオレはダメなんだよ!」

「どんな性病を持ってるか分からない。小花には触るな」

「なんっ……」

 その時、ドアの間口に巨大な影が見えた。バン! という音とともに、病室のドアが乱暴に開けられる。「小花!」と野太い声が叫んだ。

「あんた大丈夫なの? ケガは?」

 ものすごい勢いで入って来たのはニノさんだった。あたしを抱きしめていた朔也さんも、そばに立つ新のことも、蹴散らかす勢いで駆け寄ってくる。二人の兄弟を押しのけて、ニノさんがあたしの前に立つ。

「おっさん、よくこの病院が分かったな」

 新が言うと、朔也さんが答えた。

「俺が式場を出る前に電話したんだよ。小花の着る服がないから、適当なのを持って来てくれるように頼んだんだ」

 あたしはニノさんの顔を見た途端、また涙が溢れ出した。ちゃんと言わなきゃ、と思って前を向いていたけど、全身が小刻みに震えてしまい、涙が出るだけで言葉にならない。

「な、何? どうしたの。どっか痛いの!?」

 ニノさんはベッドの横にひざまずいて、あたしと視線を合わせた。心配のあまり、細い目が大きく見開かれている。

「ち……違うんです。あたし、あたし、ドレスを……」

「え?」

 一度息を吸い込む。

「ニノさんが、あたしのために作ってくれたドレス、ダメにしちゃいました。あんなに……あんなにニノさんが頑張ってくれたのに……」

 ボロボロ、ボロボロ、涙が頬を落ちる。とっても素敵なドレスだった。あのドレスを作るために、ニノさんがどれだけ苦労したかあたしは知っている。とても繊細な布で作られたものだし、塩酸がかかったあと見ていないけど、変質していると思う。あの素敵なドレスを、もう二度と着られないんだ。

 申し訳なくて泣いているあたしを、ニノさんは最初呆気に取られた顔で見ていた。それから一度大きく溜め息をつき、ベッドに座ってあたしを抱き寄せる。

「おバカさんね。そんなこと気にしてたの? アンタが無事で良かったわ。小花に傷がなければ、ドレスなんてどうだっていいのよ。小花とドレスは、比べ物にならないでしょ? ドレスはまた作るわ。それに小花は全然悪くないもの」

 ニノさんはギュッとあたしを抱きしめ、大きな手であたしの頭を撫でた。あたしはニノさんの巨大な肩に頭をつけて泣いた。ニノさんは軽く溜め息をつき、「困ったものね。本物のイノセントっていうのも……」とつぶやいた。