第六十話  『塩酸』


「Hydrochloric Acid」

 アルファベットを読み上げるのは耳に馴染んだ声だった。

「塩酸だ!」

 朔也さんの声が叫ぶ。「小花、目を開けるなっ」と声が続ける。朔也さんの切羽詰まった声を聴いて、あたしはギュッと目を閉じた。バタバタと足音がして「兄貴!」と怒鳴る新の声が響く。

「新、水!」

 朔也さんの声がトイレに反響する。朔也さんがあたしの横に来て、身体を支えてくれる。バン! とドアが壁に叩きつけられる音がしてから、一瞬後にあたしは頭から水をかぶっていた。何の水か分からないけど、多分バケツからかけられたのだろう。水をかぶった後、プラスチックのバケツを床にブン投げたような、軽い衝撃音が聞こえた。

「新、ホースを」

 朔也さんが鋭く指示する。あたしは恐ろしくて目を開けられない。とにかく、酸の放つ刺激臭がすごい。今度はパシャパシャと音がして、細い水流が頭から注がれる。新が蛇口にホースをつなぎ、頭の上から水をかけてくれているらしい。見たいのに、目が開けられないのがツラい。

「硫酸に水はダメだけど、塩酸なら大丈夫だ。 ガンガンかけろ。小花、悪い。服を脱がすぞ」

 その声と同時にドレスの後ろファスナーが引き下げられる。「誰か救急車をお願いします!」と朔也さんが言う。あたしは恥ずかしがる暇もなくドレスを脱がされた。その上、下着も全部取り払われる。朔也さんはあたしを抱きとめ、かかる水が効率良く行き渡るように、手で流してくれた。

 しばらくすると水の冷たさが身体に浸み込んで来て、あたしは小刻みに震えだした。塩酸の刺激臭は徐々に薄れてきたけど、皮膚から全部流れたかは分からない。

「ごめん。ごめんな小花。寒いだろうけど、しっかり流さないとダメなんだ」

 朔也さんは自分も水を浴びて、びしょ濡れになりながら謝ってくれる。朔也さんは全然悪くないのに……。

「新、ホースはもう一本ないのか!?」

「これしかねぇよ!」

「それならバケツに水を汲んできてくれ。脚の方を流したい」

「分かった」

 朔也さんは新からホースを受け取ったようだ。顔を中心に頭からどんどん水が降ってくる。あたしは寒さと恐ろしさで震えが止まらない。新がバケツに溜めた水を、あたしの脚にドッとかけたので、冷たさのあまり全身に鳥肌が立つ。

「お客様、どうされましたか」

 式場の従業員らしき人の声が聞こえた。続けて息を飲むような音が聞こえる。トイレの床に座り込み、全裸で水を浴びているあたしを見て、相当驚いたのだと思う。もちろん、 声の主は女性だった。女子トイレなので、男性従業員は入るのを控えているのだろう。

「薬品をかぶったらしいんです。塩酸だと思われます。今、水で洗浄中です。救急隊員の方が来たら状況を伝えてください。それとホースはありますか!?」

 朔也さんに訊かれ、従業員は「探して来ます!」といってこの場を離れた。トイレの外では人の声が、段々高まっている。

「こちらは大丈夫です。皆さまは落ち着いて元の会場にお戻りください」

 男性従業員が呼び掛ける声も聞こえてきた。

「小花、どこかヒリヒリしたりするところはないか? 痛いとか」

 訊かれてあたしは首を横に振った。実際、痛いよりも寒い。もしかしたらどこかがヒリつくのかも知れないけど、全身がかじかんでしまって冷たくて寒い∴ネ外の感覚を感じてる暇がない。

「ホースありました!」

 女性従業員が戻ってくる。新がバケツの水をかけるのをやめ、ホースをつなぎに行ったようだ。「ここはお湯が出ねえのかよっ」怒鳴るように新が聞く。「こちらの手洗い場のほうでは出ますが、この蛇口の形状ではホースに入りません」と女性が答えた。「チッ」と新が舌打ちをする。

「できれば大判のバスタオルを用意していただけませんか」

 従業員に朔也さんが頼んだ。トイレの外から「分かった!」という男性の声が答える。外にいた従業員が動いてくれたらしい。

 水で流し続けてもらえたおかげで、塩酸の刺激臭はかなり薄れてきていた。とにかく寒いだけ。もう何分くらいこうしてるんだろう。そのあともしばらくただひたすら水で洗われ続けた。新が時々、バケツに溜めたぬるい水をかけてくれたので、その時だけはホッとできた。朔也さんは自分もびしょ濡れになりながら、ずっとあたしの肌をさすり、「ごめん」と謝り続けた。

「救急隊員が到着しました!」

 廊下の方から、忙しない従業員の声が聞こえた。その時には、あたしは手と足の震えを止めることが出来なかった。「どいて下さい。道を開けてっ」と言いながら救急隊員が近づいて来る。

 救急隊員は朔也さんから事情を聞き、新と従業員に確認した後、あたしを担架に乗せた。即座にバスタオルに巻かれ、なんとか身体にぬくもりが戻った。ストレッチャーに乗せられ、トイレの前の細い廊下に出たことが分かった。みんなのざわめきが耳に迫ってくる。恥ずかしさもあったけど、もし、目がどうにかなってしまっていたらどうしよう、と思うと、目を開けることはできなかった。

「どいてくれ。見せもんじゃねぇぞ!」

 新が集まっていた人に向かって言う。新の手があたしの顔を隠すようにほっぺたに置かれる。そのまま廊下を走るように進み、エレベーターの中に入ったのが分かった。

「兄貴は着替えてから病院に来る。オレが付いていくからな」

 新がそういってくれて、あたしはホッとした。キビキビとした救急隊員の声が響く中、あたしは外に出て救急車の中に運び込まれた。

「中央病院が受け入れオーケーです」

 あたしの隣にいた隊員が、運転手さんに声をかける。救急車はすぐさまサイレンを鳴らし、動き始めた。「付き添いの方はそちらに」と言われ、新はあたしから少し離れた場所に座ったらしい。あたしは体温を測られたり、皮膚の状態をチェックされたり、色々検査をされた。隊員の処置が済んだところで、新が近くに来てくれた。あたしはもう、怖くて怖くて、ずっと目をつぶったままだった。

「大丈夫だ。どこも悪くないよ。傷なんか無い」

 そう言って新はまた、片手をあたしのほっぺたにつけた。あたしは唇を噛んで、小刻みにうなずいた。車内は暖かく、やっと少し身体から力が抜ける。安心したせいで、自然と涙があふれてきた。

「大丈夫だ。兄貴の処置は完璧だ。あいつは完璧主義者だからな」

 言ってから新は、少しため息をついた。

「でもさっきは、相当焦ったらしいな。兄貴のやつ、女装してたのに地声でしゃべってた。あいつが女の格好した時声を変えなかったの、初めて聞いたな……」

 新はひとりごとみたいに話した。あたしはあの朔也さんでも、完璧主義が崩れるくらい焦っていたんだと知って、申し訳なくなった。女子トイレからビシャビシャのまま外に出なくちゃならないし、みんなからは注目されるだろうし……。あたしは心苦しくて、涙が止まらなかった。

「万が一傷が残っちまったら、オレが嫁にもらってやるよ」

 新が指であたしの涙を拭いながら言う。それを聞いて思わず笑ってしまった。「あたしたち、きょうだいじゃない」と言おうとしたけど、きっと新にとっては、そんなことどうでもいいことなんだろう。そう思うと反論する気も起きなかった。声は真面目だったけど、あたしの気を楽にさせようとしてくれている、新の優しさが分かったから。

 あたしは手を伸ばして、新の手を握った。新は少し力を入れて、あたしの手を握り返してくれる。そのまま新は黙って、あたしの手を握り続けてくれた。