第五十九話  『パニック』


「あたしはなんとも思ってないよ。そりゃ、ステキな人だから吉崎さんには見とれちゃったけど……。でもあの人はなんか──」

 あたしは言いよどんだ。 あたしが吉崎さんに抱いている印象を、ハッキリした言葉にすることが難しい。新は眉をひそめて話の続きを待っている。

「うーんと、上手くいえないけど……あの人は、あたしに興味がないと思うの」

「興味がない?」

「うん。ただ朔也さんに頼まれたから、あたしに声をかけただけって感じがするの」

「──ふうん」

 新は一瞬考え込むような顔をしたけど、すぐに顔を上げて真っ直ぐあたしを見る。

「そんならいいけどさ。でもとにかく、あんまりベタベタしすぎんなよ。それだって今日の小花は格別可愛いんだから。もうホント、この場で犯したくなるくらい」

 新はニヤリと笑う。あたしは白けた顔で対応した。新のこの手の冗談には、最近かなり免疫がついてきたし。

「小花さ、マジで酒飲めねぇの? せっかく美味しいカクテル作ってやろうと思ってたのに」

 新が廊下を歩きながら訊いた。あたしはさっき、新が綺麗なカクテルを珠美さんに作ってあげているのを思い出した。

「お酒って飲んだこと無いんだ。でも新、すごいね。ホストなのにあんなに綺麗なカクテル作れるなんて」

「そりゃー、作れるさ。オレの本業はバーテンだからな」

「えっ。新ってバーテンだったの?」

「会員制のホストクラブでバーテンやってるの! まぁ、オレなんかそんじょそこらのホストより断然カッコいいってんで、お客さんの中にはプレゼントくれたり、酒買い上げてくれたりする人がいるんだよ。でもオレの本職は基本、バーテンだぜ」

 新は片手を上げてさりげなくあたしに挨拶してから、調理場の方へ向かっていく。あたしは会場へ戻りながら、新に対する意識が変わったのを自覚した。新にはなんとなくプロの遊び人≠ンたいないイメージがあった。でも今は、ちゃんと技術を持ったお仕事をしてるんだなぁと思える。それでも確かに、彼女がいっぱいいそうな印象は抜けないけど。

 会場では食事も最盛期に入っているようで、肉や魚のメインディッシュがどんどん運ばれてきていた。真由さんは隅の方でお友達のひとりと、なにやら話しこんでいる。話している相手は、水色のドレスを着た背の高い女の子だ。真由さんはこっちに背を向けているので顔は見えない。さっきのこと、怒ってないといいんだけど……。

 珠美さんはテーブルのすぐ横で、お皿にお肉をたくさん乗せて男性二人と話している。あたしに気づいた中野さんがこっちに来ようとした。でもすかさず横から吉崎さんが現れた。

「サクは引っ込んだみたいだね」

 吉崎さんが言う。あたしはポカンとして彼を見返した。

「え……、朔也さんが来てるんですか?」

「来てるよ。今の今までピアノを弾いていたじゃないか。気づかなかった?」

 言われてあたしは慌てて舞台の方を見た。そこにはすでに奏者の姿は無く、ピアノがあるだけだった。会場の音楽はいつの間にかCDに変わっている。じゃあ,あのピアノを弾いていた女性が朔也さんだったんだ! ルディさんの時とは違う髪色と髪形だったから、分からなかった。舞台の上で椅子に腰掛けていたから、背の高さもごまかされて本当の女性みたいに見えたんだ。

 朔也さんが来てくれてるんだ……。あたしは嬉しくて思わず頬が緩んでしまう。朔也さんも新も、ホントにあたしのことを守ってくれるつもりなんだ。

「君はきょうだいなのに、サクのことが分からなかったのか?」

 吉崎さんが聞いてくる。あたしは自分の間抜けさを恥ずかしく思いながらうなずいた。

「はい。ピアノの演奏してる人は本物の女性だと思ってて……」

「──そうか」

 吉崎さんは目を閉じると、首を振りながら皮肉気に笑った。 

「サクはここまで面倒見てやってるのに、当の妹に分かってもらえないとはね」

 吉崎さんは低い声でつぶやいた。図星を突かれて、あたしはいたたまれなくなった。それにしても、この吉崎さんって人はとっつきにくい。本人は普通に言っているのだろうけど、嫌味を言われているようにしか聞こえない。

「すみません。ちょっと失礼します」

 あたしはお手洗いに行くことにした。 もっと食事を楽しみたかったけど、吉崎さんといても落ち着かないし……。一旦トイレでお化粧をチェックして、今度こそメインディッシュにありつきたい。

 トイレはアゼリアの間から廊下に出て、少し離れた場所にあった。あたしが入っていった時はドレスで着飾った女性がひとり、鏡の前でお化粧を直しているところだった。 多分、他の会場で行われている結婚式に出席している人だろう。アゼリアの間の数少ない女性では見たことのない、紫色のドレスを着ていた。

 女性が出て行ったので、あたしは一人になった。鏡をのぞいてみる。思ったよりお化粧は崩れていなかった。でも色々食べたせいか、ピンク色の口紅が少し薄くなってしまった。用を足した後で化粧直しをしようと思って、あたしはトイレの個室に入った。さすが結婚式場なだけあって、トイレはピカピカだ。汚物入れも陶器で出来ているものが設置されていて、上品で可愛らしい。

 バタンと個室のドアを閉めたと同時に、誰かがトイレに入ってきた足音がかすかに聞こえた。あたしはドレスを汚さないように細心の注意を払いながら、トイレに腰掛けた。用を足して水を流し、ドアのカギに手を掛ける。その瞬間、頭からパシャッと何かがかかった。

 冷たい!

 あたしは思わず目を閉じた。次にきつい刺激臭がした。この臭い、カビ取り用の薬剤みたい。酸性のものの臭いだ。そう思った途端、チリチリと肌が痛み出した。あたしは手探りでドアを開け、思わず床に座り込んだ。

 その後のことは、あまりにも早いような、長いような、どうにも形容しがたい時間が続いた。まずバシッと何かを叩く音がした。「キャッ」という女の子の悲鳴が同時に響く。ほとんど同じ瞬間にカシン、カラカラ、と床にガラス製のものが落ちてから、転がったような音がした。多分、瓶のようなものだと思う。

「これ硫酸よ!」

 真由さんが叫んだ。見えないから分からないけど、真由さんの声だと思う。硫酸≠ニ聴いてパニックになりそうになる。硫酸は皮膚を溶かすんじゃ──