第五十七話  『先輩』


 やっとみんなの輪から逃れられた。思わず「ふーっ」大きく息をつく。美味しい食事を楽しみにしていたのに、今までは食べていても、味が良く分からなかった。

 あたしは氷が解けて薄くなったオレンジジュースをひとくち、コクリと飲んだ。新がカクテルを作る為会場を出たので、あたしが離れたことに気づいた中野さんが、こっちに来ようとする。あたしはそれを目の端で捕らえながら、少しウンザリした気分になった。

 本当はもっと上手にパーティを楽しんで、料理もどんどん食べればいいんだろうな、と思う。でもやっぱり直接話し掛けられると、味わうどころではなくなってしまう。ちょっとだけでもいいから、ゆっくり料理を食べたいな。

「こんばんは」

 低い、響きの良い声が突然上から降ってきて、あたしは驚いて顔を上げた。その人を見た途端、あたしは圧倒されて息を止めた。

 まず、背が高い。ニノさんと同じか、もう少しあるかも。年のころは多分、二十五、六だろう。スラッとしているけど、新みたいに細くはない。見るからに高そうなスーツは黒に近い深いこげ茶色。中のシャツは濃紺でネクタイはスーツと同じ色だった。

 横わけにされた黒髪は一部がサラリと額に落ちて、後ろ髪はすっきりと刈られている。さほど華美ではない服装は、普通のサラリーマンがパーティ用に少しオシャレをしてきました、という程度だけど、全体的に洗練されたイメージが漂っている。

 何より、その顔立ちに目を見張った。太めの眉と気だるげな大きな瞳。通った鼻筋と、肉感的な唇。男性にこんな言葉が当てはまるのか分からないけど、とにかくゾッとするほど魅惑的だった。

 吸い込まれそうなほどの大きな瞳は、つかみどころのない、排他的な雰囲気が漂っている。あたしに視線を向けているのに、興味があるのかないのか判別できない倦怠感がある。ニヒルな感じ。それなのに見つめられると見つめ返さずにはいられない。背中に寒気が走る。吸い寄せられて、動けない。

「少し、話してもいいかな」

 あたしが挨拶も返さないまま見とれていたので、彼は戸惑ったようなかすかな笑みを口端に浮かべて言った。あたしは止めていた息を吐き出した。どうしよう……。なんかしゃべらなきゃ。あたしは魔力でもありそうな彼の瞳にくぎ付けになりながら、無理矢理思考を回転させた。ええと……、初対面の人とはまず挨拶だ。挨拶しなきゃ。

「こ、こんばんは……」

「ああ、良かった。口はきけるんだね」

 彼は困ったような顔で皮肉気な笑みを浮かべた。低い声は耳に心地よく、ものすごいセックスアピールがある。

 でもあたしはその時、彼の魅力的な顔と声に惹きつけられながらも、どこか引っかかるものを感じていた。なんだろう。今の言葉──。

「あ、俺は吉崎っていうんだけど」

 相手が名乗ったので、あたしは会話に集中することにした。相手の顔に惑わされないようにしなくちゃ。

「きみ、小花ちゃんだよね?」

「は、はい」

 あたしは驚いた。なんでこの人、あたしの名前知ってるの?

「俺は白金朔也の高校時代の先輩なんだ。二コ上」

 言ってから彼はフッと笑った。すごい迫力のある微笑み。朔也さんも圧倒される美しさを持ってるけど、それとは全然違う。朔也さんの持つ清廉さや実直さが、この吉崎さんにはない。ただただ妖艶≠ニいう感じだ。全身から何かの妖気が漂っていそうなイメージ。見惚れてしまうのに、怖い。怖いのに、目が離せない。

「サクから、君のことは聞いてるよ。昔、離れ離れになった妹が帰ってきたって」

「──そっ、そうですか」

 あたしは彼から漂ってくる、得も言われぬ圧迫感に怯みながら答えた。息が詰まって、呼吸困難になりそう。

「サクの奴、君の事すごく心配してたよ。よほど君のことが……気にかかるみたいだね」

 吉崎さんはひとくちグラスのお酒を飲むと、じっとあたしの顔を見た。うわぁ、なんという目力……!

「あいつもどうしようもないな。いくら彼女があんな状態だからって、今度は実の妹に夢中になるなんて……」

 ささやくように言ってから、吉崎さんは目を閉じて軽く笑った。あたしはなんと答えていいのか分からなくて、居心地の悪いまま立っていた。

 この様子だと、この吉崎という男性は朔也さんとかなり親しいらしい。朔也さんから聞いて、このパーティにあたしが来ることを知っていたのだろう。朔也さんの妹≠セから、あたしに話しかけて来たということか……。

 吉崎さんのおかげで、こっちに来ようとしていた中野さんは元の場所に引き返した。横にいる森本さんと、あたし達をチラチラ見ながら何か話している。あたしは大勢の男性に囲まれる状態から逃れてホッとしたけど、ある意味この吉崎さんと一緒にいる方が、気が重いような気もする。なんでこんな強烈な威圧感があるの……。この人。

「まぁ、君を見てると、サクが構うのも分かるような気がするけどね。サクは君みたいに──ミルクの匂いが抜けなそうな女の子が好きだからな。里菜とは全然違うタイプだ。うん……きっとそうだ。だからこそ、里菜とサクは合わなかったんだろう」

 あたしは段々、お腹の辺りがチクチクするような、イヤな感じが強まってきた。この人は朔也さんの先輩で、多分とても仲がいいのだろう。大好きな朔也さんと親しい人にこんな感情を持つのは申し訳ないけど、あたしはこの人にどうしようもない苦手意識を持ってしまった。

「あのっ」

 あたしはお腹に力を入れてから思い切って切り出した。彼は少し目を細め、首をかしげてあたしを見る。苦手な人だけど、何をしても色っぽくてドキドキする。つい、見惚れてしまいそうになる。でもこういう感覚は、朔也さんと新でだいぶ慣れてきたもの……。負けないようにしなくちゃ。

「確かに朔也さんは、あたしにたくさん気を遣ってお世話してくれます。でもそれは、久しぶりに会った妹だからだと思います。あたしもまだ新しい環境に慣れなくて、朔也さんを頼ってしまいますが、頑張って自立するつもりです。それと──」

 あたしは吉崎さんの目を真っ直ぐ見た。余計なことかもしれないけど、あたしがさっき覚えた違和感を率直に伝えることにする。

「あたしの弟は、口がきけません。でもそれは一種の病気であって、本人のせいじゃないんです。だから口がきけて良かった≠ニ気軽に言われると、少し悲しい気持ちになります」

 言い終わってから頭を下げ、あたしはすぐにその場を離れようとした。きっと相手は気分を害しているだろうし、このことで朔也さんにも迷惑をかけてしまうかもしれない。でもこれ以上、吉崎さんと一緒にいることに耐えられなかった。

「待って」

 肩をつかんで、吉崎さんはあたしを引きとめた。あたしは驚いて振り返った。吉崎さんは何か熱いものにでも触れたかのように、すぐさまあたしの肩から手を離した。そして「ごめん」と謝る。

「悪かった。言い過ぎたよ。不快な思いをさせて申し訳ない」

 眉をひそめ、悲しげに見える表情で言われて、あたしはつい足を止めてしまった。あたしが立ち止まったのを見て、吉崎さんは切なげな顔に微かな笑みを浮かべる。

「少し──驚いたよ。そんな風に、はっきり意見を言うようには見えなかったから」

「すみません。あたしも言い過ぎました」

「いや……」

 軽く首を横に振ってから、彼はまじまじとあたしを見た。

「サクが君に惹かれる理由が少し分かった気がするよ」

 あたしはキョトンとした。惹かれるって……。朔也さんがあたしに?