第五十三話  『パーティドレス』


「えっと……あたし、携帯電話持ってないんです」

 言いながらあたしはどこかホッとしていた。男性と連絡を取りあったことなんてないから、たとえ携帯を持っていても、アドレスを教えていいものか迷っただろう。

「ああ、そう。それじゃあ……そうだな。近々また、僕がここに顔を出すよ。その時、都合のいい日を教えてくれるかな」

「え……、と」

 どう答えていいのやら迷っていると、靴音をカツカツ響かせて、ニノさんが戻ってきた。晶子さん用に見繕ったブラとパンツを持っている。

「五千円でいいわ。常連さんだしね」

「すみません。助かります」と正悟さんが言う。ニノさんが下着を袋に入れて渡すと、正悟さんはそれを受け取り、あたしに笑いかけて「じゃあ、また」と言ってから出口に向かった。

 あたしは決まりどおり、お客様を出入り口までお見送りして、「ありがとうございました」と言って頭を下げた。なるべくピンと背筋を伸ばし、歩き方に気をつけながらニノさんのところに戻る。ニノさんはちょっと面白がっているようにあたしを見た。

「小花。あなた、正ちゃんからデートに誘われたでしょ?」

 あたしは瞬時に真っ赤になる。

「き、聞いてたんですか?」

「そりゃ、聞くわよ。だって面白いもの」

 ニノさんは「ウフフ」と笑って椅子に腰を下ろし、足を組んだ。

「いいじゃない、お茶するくらい。一緒に行ってあげれば? 正ちゃんはいい子よ。マジメに働いてるし、親元に勤めてるけど、ひとりで家を出て独立してるしね。あの子、ずっと都内の美容院で修行してたのよ。一人前になってから、去年実家に戻ったの。いい意味で大人だし、しっかりしてるわ。小花がお付き合いするには安心できる相手だと思うわよ」

 あたしは真っ赤になったまま下を向いた。自分が男の人と一緒にどこかへ出かけたり、お付き合いするなんて想像もできない。ふたりでお茶を飲んだとしても、一体何を話せばいいんだろう。

 お茶……。そういえば、新とは二人でお茶を飲んだことがあったっけ。でも新はお兄さん≠セし、強引で勝手にひとりで何でも決めちゃうから、今、正悟さんに感じてるみたいな気恥ずかしさは無かった気がする。それを言うなら、朔也さんとは抱き合った上にキスまでしたんだ。でも彼もお兄さん≠セ……し……。

 あたしは今になって突然、朔也さんとキスしてしまったことを思い出した。あたしの顔に、さっきとは比べ物にならないほどの血液が上る。どうにもならないほど顔が熱くなり、心拍数が激しく上がってくる。

 昨日の夜はキスのことより、里菜さんのことばかり考え続けていた。だからあの魔法の世界≠フことを思い返す余裕が無かった。突然キスの記憶を取り戻したあたしの全身の細胞が、痛いくらいの熱を帯びる。

 朔也さんの艶めいた瞳や、大きくて広い胸、力強く抱き寄せてくる腕などがリアルに思い出される。あたしは心臓が口から出てくるんじゃないかと思うくらい、息苦しくなった。

「あらあら、大丈夫?」

 もがいているあたしを見て、ニノさんが立ち上がり、肩を支えてくれた。

「あんたって、ホントにウブなのね。ちょっと男に誘われたくらいで、こんなに取り乱すんだから」

 ニノさんは呆れ混じりに笑いながら、背中をさすってくれる。あたしはもちろん、呼吸困難を起こすほど動転しているのは、正悟さんが原因じゃなくて朔也さんのせいだとはとても言えなかった。

「ま、しょうがないわよね。ついこの間までユーレイ同然だったんだから。でもねぇ小花。あなたパーティに出たら男に誘われること、何度もあると思うわよ。そのたびにオタオタしないようにしなくちゃね」

 あたしは大きく息をついて、体に酸素を取り戻した。ニノさんの言うことには、いまいち実感が湧かない。あたしのことを気にする男性がいるのかしら……。

 それに、さっきみたいに誘われるのも、嬉しいというよりなんとなく、面倒な気がした。だってあたしは……。

 あたし……あたしは、朔也さんのことが──。

 そこまで考えて、あたしの心は急ブレーキをかけた。自分自身の中にある何かが鋭い警告音を鳴らす。これ以上はだめだ、考えてはいけない、と。

「パーティではたくさんの男を見てくるといいわ。正ちゃんもいい子だけど、もっと素敵な男がいるかもしれないしね。あ、でも……」

 ニノさんはどうにか平常に戻ったあたしから離れ、また椅子に腰掛けた。

「問題は兄貴ね」

「兄、ですか?」

 あたしは恐る恐るきいた。兄ってどっちの兄のことだろう。

「そうそう、あのゴージャスなダブル兄よ。ルディも新も、ほんとにあなたのこと大事にしてるもんね。下手な男が寄ってきたら、あっという間に撃退されちゃうわ」

 ニノさんは足を組んで、レジ台に頬杖をついた。

「ルディに針のこと伝えたら、対策を取るって言ってたわ。すごく冷静な声だったけど、あれはキレてたわね。静かにキレてた」

 あたしはゴクンとつばを飲んだ。対策を取るといっても、どうするんだろう。パーティに出るのはやめろって言われるのかな……。

 不安なまま、その日の勤務を終えた。家に帰ったら朔也さんも新も外出していて、優くんが夕飯の用意をしていた。留夏は隣でお手伝いをしている。ふたりの兄が帰って来たのは九時過ぎで、珍しく一緒に帰宅した。どうやら二人で同じ場所に出かけていたらしい。

 朔也さんはあたしに「大丈夫。ちゃんと手は打ったから。小花はパーティを楽しんでおいで」と言った。新はあたしの頭をグリグリ撫でて「気取ったオトコ共を悩殺してこいよ」と言う。二人ともそれ以上のことは何も言わず、あたしは兄たちがどんな対策を取ったのか、知ることは出来なかった。

 翌日、ニノさんは部屋にこもりきりで、あたしのドレスの仕上げをしてくれた。その日は新作の下着が入荷されたので、あたしもそこそこ忙しく、次の日のパーティのことは考えないで過ごせた。勤務を終えた帰り際、細かい裁縫作業で疲れた様子のニノさんから翌日の予定を伝えられる。

「明日は午後からお店を閉めるから、勤務は午前中だけよ。小花は晶子のとこで髪をセットするんでしょ? あたしはセットが終わるまでにドレスの準備を終わらすから、その後白金家まで送って行ってあげるわ」

 あたしはニノさんの申し出を有難く受けた。帰宅したその夜、朔也さんはあたしの手の爪にネイルを施してくれながら、「朝は俺がニノさんのとこまで車で送るよ。そうすれば自転車を置いて来なくて済むだろう?」と言ってくれた。

 あたしは自分がパーティに行くために、何から何までやってもらうことを申し訳なく思った。でも朔也さんも新もニノさんも、面倒だとか、迷惑だとか、全然思わないみたい。パーティが終わったら、みんなに何かお礼をしなくちゃ。

 そしてパーティ当日。予定通り髪のセットを終えたあたしは、ニノさんと一緒に白金家へもどった。ニノさんは丹精込めて作ってくれたあたしのパーティドレスをガーメントバッグから厳かに取り出す。あたしはドレスの美しさに息を止めた。

 ドレスは上品なオフホワイトで、スカートは膝丈。生地はニノさんによると、シフォンと呼ばれるものらしい。形はワンピース。トップスはベアトップ(胸から上の部分がない)になっている。その上にレースの半袖ボレロを羽織る。ニノさんはこのレースも、自分で編んだと言っていた。

 スカートはシフォンを幾重にも重ねたフレアで、歩くと柔らかく外に広がる。アクセサリーは真珠のネックレス。バッグも白いショルダーバッグをきちんと用意してくれている。

 あたしは、ドキドキしながらドレスを着てみた。ドレスはあたしの身体にしっくり合っている。座ったり立ったりしても、まったく違和感はなかった。

「なるべく引っ掛けたりしないでね。破れやすいから。でも肌触りは抜群でしょ? それ、本物のシルクなのよ」

 ニノさんに聞かれて、あたしは大きく頷いた。ドレスの肌触りはどこまでも柔らかく、サラリとしている。こんな綺麗なドレス、本当にあたしに似合ってるのだろうか……。

 あたしは緊張して鏡を見た。晶子さんがセットしてくれた髪はゆるいウェーブがかかっていて、編みこみを入れて軽いアップにしてある。それが柔らかなドレスにピッタリ合っていた。鏡の中の自分は上品なうえ、愛らしくさえ見える。

「すごい……。キレイ」

 あたしは嬉しくて涙ぐんでしまった。

「ありがとうございます。とっても素敵」

 ニノさんは腕を組んで満足そうに笑う。

「いいのよ。アタシも思い切り裁縫が出来て、すごく楽しかったわ。見ての通りアナタは立派なレディよ。自信を持って、堂々とパーティに行きなさいね」

「はい」

「ほらほら、化粧が崩れるから泣くのはナシ!」

 うなずいてあたしは指先で目じりを拭った。最初コワかったけど、今ではニノさんに出会えて本当に良かったと思える。