第五十二話  『お誘い』


 あたしがあれこれ考えている間に、ニノさんは針を小さなビニール袋に入れ、携帯を取って来ていた。

「ちょっと店番しててくれる? アタシはルディに電話するから」

「朔也さんに言うんですか?」

 できれば、言ってほしくなかった。あたしのことで朔也さんに心配をかけてしまう。それだって、彼には悩みがたくさんあるのに……。

「当たり前でしょ。偶然にせよ、故意にせよ、ルディには伝えておかないとダメよ。あの子はまだ若いけどしっかりしてるし、小花のこと死ぬほど大事にしてるもの。言わなかったら、逆にアタシが怒られちゃうわ。あの子怒ると怖いのよ」

 ニノさんは電話を掛けようとして、「そうだ」と言うと近くの棚から白い箱を取り出す。

「これは本番用のパンプスよ。靴擦れはしないと思うけど、慣れるためにお店ではこれを履いてね。ぶつけたりして傷つけないでよ」

 ニノさんは箱を渡し、あたしを店の中に追いやった。あたしは試着室から出ていつものパンプスを履き、手に靴の箱を持ってレジの前まで行く。お店にお客さんは来ていない。掃除は出社してすぐ済ませてしまったので、たいしてやることもなかった。頭が整理できないまま、レジの前の椅子に座る。

 さっきの衝撃をよくよく思い出してみる。どう考えてもさほど親しくも無い真由さんから、嫌がらせをされる理由が見つからない。好きにはなれないけど留夏の従姉だし、この先会うことも多いはずだから出来れば上手く付き合いたい。針の事は怖いけど、今更パーティをすっぽかす訳にはいかないだろうし……。

 多分、この時のあたしは、恐れよりもどうにもならない怒りが先に立っていたのだと思う。例えば本当に、真由さんがあたしに嫌がらせをしているのだとしたら、そのキタナイ行為にムカつきを覚えるからだ。

 どこからともなく負けてたまるか≠ニいう強い闘志が湧きあがってくる。やっぱり新の言う通り、本当のあたしは自分で思うより気が強いのだろうか。

 奥の方からは、ニノさんが電話で話すボソボソした声が聞こえてくる。あたしは手に持っていた箱のフタを開けた。見えたのは上品なオフホワイトのパンプス。表面がフラワーレースで覆われ、細いストラップが付いている。手に取ると、ヒールの高さは六センチ程度だとわかった。

 あまり高いヒールだと転ぶ可能性が高いから、ちゃんと考えてニノさんが選んでくれたんだろう。あたしはパンプスをそっと床に置き、ストラップを外して足を差し入れた。靴はピッタリだった。立ち上がって何歩か歩いても、痛みは全く感じない。

 そのとき、「ええっ、何言ってるの。ルディ!」とニノさんが怒鳴った。あたしは何事かと思い、試着室を見に行こうとした。でも ちょうど同じタイミングでお客さんが来てしまった。来店を知らせるドアベルがカランカランと音を立てる。

 あたしは急いで振り返り「いらっしゃいませ」と言った。「こんにちはぁ」という男性の声が答える。その人は少し気恥ずかしそうな感じで、店内に入ってきた。どこか決まり悪そうに、棚に並ぶ下着をチラッと見てはサッとそらすのを繰り返している。彼はレジの近くにいたあたしに目を向けると、一瞬キョトンとしてから、「やあ」と言って微笑んだ。

 あたしは少し戸惑ったけど、とりあえず笑顔で頭を下げだ。お客様には必ず笑顔で接しなさい、というのがニノさんの教えだからだ。

「えーと、僕のこと覚えてる?」

 そう言われて、あたしは目をパチクリさせて彼を見た。目の前にいる人は、身長が大体一七五センチくらい。年齢は二十代半ばだろうか。これといって目立つ顔立ちではないけど、少したれ目の一重まぶたの目元はとても優しそうだ。

 痩せぎすで、濃いグレイのざっくりしたサマーニットを着て、下はチノパンを穿いている。あたしは頭の中の記憶を探った。でも、人の顔を覚えるのが苦手なあたしは、彼の顔をまったく思い出せない。あたしが言葉に詰まっていると、目の前の彼は意気消沈したような、はにかんだ笑顔を見せる。

「そっか……、それは残念だな。僕はチェリー≠フ美容師だよ。店長の晶子の息子です。正悟(しょうご)といいます」

「えっ」

 あたしは思わず、口元に手を当てた。この人、髪を切ったときに美容院にいたんだ。しかも晶子さんの息子さんとは……。いくらあたしでも、晶子さん以外の美容師さんがいるのは分かってたけど、顔まで覚えている余裕がなかった。

「す、すみません、あたし、よく覚えてなくて……」

 焦ってあたしが言うと、正悟さんはくしゃりと笑って首を振る。

「いや、初めての場所だし、お袋以外のヤツなんか覚えてないよね。それにしても小花ちゃん、綺麗になったね。髪を切ったときも見違えたけど、今はもっとずっと、可愛くなったよ」

 正面きって言われて、あたしは真っ赤になってしまった。「あ、ありがとうございます」とお礼を言ったら、正悟さんは嬉しそうに笑った。 それから、「あ……、えっと」と少し躊躇いがちにこちらを見る。

「こんなこと聞いたら失礼かもしれないけど、その……彼氏とかいる?」

 あたしは口を開けて呆けてしまった。彼氏……? あたしに彼氏≠ネんて、出来ることがあるのだろうか。

「いえ、まさか」

 あたしが否定すると正悟さんはホッとした様子になった。

「そうなんだ。それなら……今度僕とお茶でもしない?」

「──は?」

 突然言われて、あたしはなんのことだかすぐには理解できなかった。正悟さんは照れくさそうに頭をかきながらあたしを見る。あたしの脳みそは徐々に、正悟さんがあたしと一緒に「どこかでお茶を飲もう」と言っているのを理解した。

 お茶。お茶を二人で飲む? なんかそれって、デートみたいな……。

「時間があるときでいいからさ。とってもおいしいコーヒーを飲ませてくれるお店があるんだ」

「あ……、はぁ」

 あたしは尻つぼみの返事しか出来なかった。何しろこの十九年間、男性からお茶に誘われたことなんていっぺんもないから、反応の仕方が分からない。それに今は、ドレスのことやパーティのことで頭がこんがらがっている。

「あらァ、正ちゃん、いらっしゃい」

 まるで救いの神のようにニノさんが来てくれた。手には携帯電話を持っている。電話が終わったんだ。針のことで、朔也さんがなんていったのか気になる。でも今ここで訊くわけにはいかないし……。

「ニノさん、こんにちは。母からまた、下着を買ってくるように頼まれたんです。いつも思うけど、独身の息子に頼むことじゃないよね」

「そうねぇ。でも正ちゃんも、もう二十六でしょ? そろそろ将来の相手を見つけてもいいんじゃない?」

「うん、そうだね。でもなかなか、いい出会いがなくて……」

 正悟さんはチラリとあたしを見る。意味ありげな視線にドキッとしたけど、なるべく表情に出ないように、営業スマイルを顔に貼り付けたまま耐えた。

 ニノさんはあたしと正悟さんの間に漂う微妙な空気を感じ取ったように、口を結んであたしたちを交互に見る。それから何事もなかったかのように「晶子のブラはBの七〇だったわね。パンツはL。選んでくるからちょっと待ってて」と声をかけて行ってしまった。正悟さんがシャツの胸ポケットから携帯を取り出す。

「あの、もし良かったら、メアドの交換しない? 休みの日とか、都合付きそうな日があったら、メールもらえると嬉しいな」

 少し緊張気味に、気恥ずかしそうに正悟さんは言った。言われたあたしの方はもっと緊張して、背中が汗ばんでくる。