第五十話  『冷たい視線』


 次の日の朝陽は、いつもより目に染みた。

 昨日あのあと、朔也さんが「もう帰ろう。ごめん、付き合わせて」と言い、一緒に家に帰った。帰り道、朔也さんはあたしの手を引いてくれた。こんな時、おしゃべりが上手な人なら何か気を紛らわせることを言えるのかもしれないけど、あたしは結局何も思いつかず、手を引かれて歩くことしか出来なかった。

 玄関を開けると、新が留夏とお風呂から出てきたところだった。ラディも一緒に入ったようで、小さなからだのところどころに濡れた毛が固まっている。留夏は嬉しそうにあたしたちに駆け寄り、新は一瞬、こちらをじっと見つめた。そして「風呂空いたぞ」とだけ言って居間に行ってしまった。

 朔也さんが留夏を寝かしつけてくれている間に、あたしはお風呂に入った。思ったより身体が冷えていたみたいで、温かい湯船が心地よかった。

 その夜、新は珍しく部屋にこもってしまい、あたしは明日の勤務の為に早めに寝ることにした。朔也さんにおやすみの挨拶をしたら、彼はどこか申し訳なさそうな笑みを口元に浮かべて、「おやすみ。今日はありがとう」と言ってあたしの頭をなでた。

 部屋でひとりになると、さっきの話を思い出してしまって、なかなか寝付けなかった。朔也さんのつらさを思うと 自然と涙が出てきてしまう。結局泣きながら眠ったらしく、朝起きたら、痛いくらい朝日がまぶしかったのだ。鏡で確認したら、目は腫れてはいないので助かった。

 午前十時ごろ、玄関のベルが鳴った。 あたしは出勤で家を出るまでに三十分ほど時間があったので、留夏と外で遊ぼうと、帽子を手に取ったところだった。朔也さんは十時の生徒さんが急病で来られなくなり、珍しくコーヒーを飲んでゆっくりしている。新は夜更かしでもしたのか、ついさっき起きてきて、面倒くさそうに朝食を食べていた。

 あたしは「はーい」、と返事をして玄関へ出た。留夏がパタパタと後を付いてくる。あたしが玄関のあがりかまちまでたどり着いた時、勝手にドアを開けて入ってきたのは真由さんだった。あたしを見て、「あら」と声を上げる。

 「おはようございます」とあたしは挨拶した。苦手なひとなので、さすがに明るい声は出せなかったけど……。真由さんは、しばし無言であたしを見た。それから急に険のある顔になる。

「あなた、新しい生徒さん? ここは母屋よ。レッスン室はあちらだから、今すぐ移動してくださらない?」

 真由さんは鋭く言い放つ。あたしはその迫力に押されて、つい、オドオドしてしまった。

「あ、あの、あたし……」

 留夏があたしの服を引っ張った。留夏も真由さんが苦手らしいので、あたしに頼りたくなったのだろう。両手を伸ばして抱っこをせがんでくる。あたしは留夏を抱き上げた。でもそうやって留夏がなついていることが、余計に真由さんの癇に障ったらしい。彼女はキッとあたしを睨み、玄関のドアを大きく開け放って言った。

「レッスン室はあっちよ。場所が分からないなら案内してあげるわ」

「うっせーな、朝から何をキャンキャン騒いでんだよ」

 新の声が後ろから割って入った。あたしは振り返った。新は寝起きのまま整えていないボサついた髪に手を突っ込んで、ボリボリ掻きながら廊下を歩いてくる。後ろから朔也さんも来ていた。「おはよう、真由ちゃん」と朔也さんが挨拶する。

「朔也、何この子? 勝手にうちに入り込んでるわよ」

 勢い込んで真由さんは言う。口を挟む暇がない。

「真由ちゃん、この子は小花だよ」

 朔也さんはにこやかに笑いながら言った。真由さんは怒った顔のまま、いったん止まる。それから「ええっ」と言ってあたしを見た。口元に手を当て、目を凝らしながらあたしの全身を細かくチェックする。

「……はーあ、そうなの」

 真由さんはつぶやき、自分の髪を指で梳いた。

「髪を切ったのね。この前と印象が違うから分からなかったわ」

 ちょっと固い口調で言って、真由さんはまた髪を梳く。「そうなんだ、かわいーだろ」と言って、新があたしの頭に手を乗せる。真由さんの視線が、一瞬鋭くなる。

「今日は朝からどうしたの?」

 朔也さんに訊かれて、真由さんは表情を緩めた。

「あ、そうそう。今日は大学の講義が休講になって時間ができたから、こちらに来たの。小花さんに貸すドレスを届けにきたのよ」

 真由さんは手に持っていた紙袋をこっちに向かって差し出した。あたしは留夏を腕に抱いていたので、朔也さんがわきから手を伸ばし、受け取ってくれる。

「パーティ用のドレスだね。ありがとう。でも真由ちゃん、実は他で用意できそうなんだ。せっかく持って来てもらって申し訳ないけど」

「あらぁ……そう? ね、それってどんなドレス? わたし見てみたいな」

「それが──まだここにはないんだ。多分、当日までには間に合うと思うけど……」

朔也さんはチラリとあたしを見る。あたしはなんとも言えない顔をして見返した。ニノさんはドレス作りを頑張ってくれているけど、色々凝り過ぎているようで、本当に間に合うのか分からない。

「ふぅん。だったら予備としてそのドレスも置いておけばいいわ。あたしのお古で悪いけど、少し修正すれば大丈夫よ。もちろん、差し上げるつもりで持ってきたのよ」

 言うと、真由さんはとびきりの笑顔を見せる。当然、朔也さんだけに向けて。

「それじゃ、小花さん。当日は六時に迎えに来るわ。そのまま会場に向かうから、ドレスは着てしまっていいわよ」

 さっきとは打って変わって、愛らしさダダ下がりの事務的な笑みを浮かべ、あたしに向かって真由さんは言った。「じゃあね」、と朔也さんに手を振って帰ろうとする真由さんを、朔也さんが引き止める。

「もう帰るの? お茶でもどう?」

「いいわ、車を待たせてるから。今日、朔也はレッスンだと思ってたから、すぐに帰るつもりで来たの」

 真由さんはもう一度朔也さんに手を振った。玄関から出る時、一瞬だけあたしを振り返る。値踏みするような、重く冷たい視線だった。ねめつけるその視線に、無意識に鳥肌が立つ。

「んあー、なんかちょっと、ニオウなァ」

 バタンと音を立てて玄関のドアが閉まった後、新が言った。「う……ん。そうだな」と朔也さんも言う。あたしは不安に思って二人の兄を見返した。あたしが微妙に感じ取ったイヤな空気を、二人の兄も感じたのだろうか。朔也さんは少し厳しい顔で顎に手を当て、何か考えている。でもハッと気がついたように腕時計に目をやり、あたしに顔を向けた。

「小花、もう少しで出勤だろ。留夏とは俺が遊ぶから行っておいで。ドレスも持っていって、お店で試着してみるといい」

 言われて、あたしは勤務が迫っていることを思い出した。隣にいた新に留夏を預け、バッグを取りに部屋へ向かう。あたしが用意をしている間、兄二人はなにやら真剣な顔で話し合っていた。あたしは真由さんが何か企んでいるとは思いたくなかったけど、なんとなく、不安が頭をもたげてくるのは確かだった。

 自転車に乗っているときも、真由さんの最後の視線が頭を離れなかった。あたしは今までもたくさんのひとから(特に女性から)、敬遠されたり、失笑の対象になったり、バカにされたりしたことは何度もあった。でも、あんな風に、なにか含みのある目で見られたのは初めてだ。

 あの目──。あの目はまるで、あたしのことを憎んでいるみたい……。