第四十九話  『彼女』


 多分そのキスは、大人のひとがするような、深いキスではない。唇が触れ合うだけの、初めてのキスから少し進んだくらいのキス。

 でも、あたしにはとてつもなく官能的だった。もっと欲しいと思ってしまう。もっと強く引き寄せて、深く抱きしめて、離さないでほしいと──。

 朔也さんはゆっくり唇を離し、最後にあたしの頬にキスをした。それから力強く、胸元あたしを抱く。あたしはしばらくの間、夢の中にいられた。朔也さんの胸に耳をあて、トクン、トクン、と繰り返す鼓動の音だけを聞く。それは奇跡のように幸せな時間だった。

 ずっとこうしていたい……、と思ったとき、また風が通り抜けた。風は木の葉を揺すり、月の光も一緒に揺れる。その風があたしを魔法の世界から引き戻した。

 ひとつの思いが、胸の奥から湧きあがってくる。あたしは無意識に身体中を震わせた。激情ともいえるその思いのせいで、いきなり涙腺が決壊する。ピクリと朔也さんの腕に緊張が走る。「どうした?」、と問いかけ、あたしがしゃくりあげたので、朔也さんは慌てて腕を解いた。

 「小花、小花、どうしたんだ?」と聞きながら、あたしの顔を覗き込もうとする。あたしは両手で顔を覆ったまま、泣きじゃくった。朔也さんは相当、あわてふためいたようで、あたしの肩をさすったり、あたまを撫でたりしてくれた。でもあたしが子供みたいに両手で顔をこすりながら泣いていたので、そのうち万策尽きたようにあたしから離れてしまった。

「──ごめん、イヤだったんだね」

 朔也さんは言った。これにはあたしが驚いた。大急ぎで、頭をブンブン横に振る。

「ち、違う……! そうじゃない。そうじゃなくて、すごく素敵だったの。とても幸せで……だから……」

 朔也さんはホッと息を吐いた。少しためらいがちにあたしの腕に触れ、涙でぐちゃぐちゃになったあたしを、もう一度腕の中に抱いた。

「──それなら、なぜ?」

 朔也さんの声は優しかったけど、どこか緊張していて硬かった。あたしはポケットからハンカチを探し当て、なんとか涙をぬぐった。情けないけど、鼻水も一緒に出てくる。どんなにハンカチで拭いたところで見られた顔じゃないとは思うけど、気分的に少し楽になった。

「……だって、やっぱり申し訳なくて。朔也さんの……彼女に」

 あたしは夢みたいな魔法が解けてしまった理由を、朔也さんに伝えた。朔也さんが息を止めた。そのまま全身を硬直させる。あたしを抱く腕を解くことは無かったけど、何も言わない。空気まで急にこわばって冷えてしまった感じがした。

 あたしは自分が言ったことを後悔した。せっかく朔也さんがかけてくれた美しい魔法を、自分の手で汚してしまったから。

「ごめんなさい、あたし……」

 あたしは朔也さんの腕から離れようとした。でも朔也さんは逆に強くあたしを胸に引き寄せる。それから、ふぅーっと、長い息を吐いた。そして「彼女か……」とつぶやく。

 朔也さんはあたしから手を離し、「あっちに椅子があるんだ。移動しよう」と言った。椅子はヒトツバタゴの木から五メートルほど離れた場所にあった。暗いから近づくまで良く見えなかったけど、少し歩いただけでたどり着いた。朔也さんはズボンのポケットから大判のハンカチを取り出し、椅子の上に広げる。そしてあたしを促してその上に座らせた。椅子は木製だったから、ハンカチ越しでもジンワリとした冷たさが伝わってくる。日中の雨を木が吸い込んで、まだ蒸発しきっていないのだろう。

 朔也さんはあたしの隣に腰を下ろし、前屈みになって両手を組んだ。

「俺の彼女のこと、新かニノさんから、何か聞いてる?」

 朔也さんは、顔だけをあたしの方に振り向け、問いかけてきた。あたしは首を横に振った。

「何も聞いてない。新は、サク兄が自分で話すだろうから、オレからは言わないって」

「……そうか」

 朔也さんはそれだけ言って、前を向いた。口をつぐみ、何かを考え込むような顔になる。ゆるい風が葉を揺らしサラサラ鳴る音が、さっきより強く耳につくようになった。

 魔法の解けた月の光は、優しい暖かさを消して冷え冷えして見える。あたしは寂しい気分で、ぼんやりと前を見つめた。朔也さんを傷つけてしまったのではないかと、そればかり気にしていた。

「俺が彼女と出会ったのは、十五歳の春だ」

 朔也さんが話し出したので、あたしは顔を上げた。彼は前屈みの姿勢のまま、前方にあるヒトツバタゴの木を見つめて話していた。

「高校に入学して、同じクラスになった。彼女──里菜(りな)は小さな頃からピアノを習っていて、俺もピアノをやっていたから、よく一緒に話すようになった。高校は普通科だったけど、音大に行きたいという夢も同じだった。里菜は時々、雑誌のモデルの仕事をしていた。

 母方のお祖母さんがイギリス人で、クォーターの彼女は凄く目立つ子でね。薄茶色の髪と青味がかった瞳がとても綺麗だった。今でも、里菜に出会った日のことは忘れない。あの年は桜の開花が遅くて、入学式の時にはまだ散り始めくらいだった。風が少し吹いただけで、はらはらと花びらが散る。花吹雪の中で笑う里菜は、天使とか、桜の花の妖精みたいに見えたよ。透き通るように美しかった」

 過去を振り返る朔也さんの瞳は、優しさと愛おしさに満ち溢れていた。朔也さんは本当に彼女──里菜さんのことが好きなんだ、と思えた。あたしは自分の心の奥に走った鋭い痛みに、どうにか気付かないフリをすることが出来た。

「入学してひと月くらいで、俺達は付き合うことになった。里菜は明るくて前向きな性格だから、生真面目な俺は彼女といると新しい世界に出会えたようで、とても楽しかった。最初の夏休みは、二人でディズニーランドに行ったり、泊まりがけで出かけたりもした。うちの親父はそういうことにうるさくなかったし、里菜の両親も俺には寛容でいてくれたんだ。俺は里菜と出会えて幸せだった。でも段々……」

 朔也さんは自分を抱きしめるように腕を組んだ。

「里菜の仕事が忙しくなるにつれ、すれ違いが多くなった。里菜はピアノも頑張っていたけど、少しずつモデルの仕事が多くなっていたんだ。学校も遅刻、早退、欠席が増えていく。それでも、彼女は時間をつくって俺に会いに来てくれたよ。撮影場所でどんなことがあったか、夜通し話してくれるんだ。愚痴も含めて色々な話を聞いたけど、里菜はひとの悪口だけは絶対、言わなかった。俺は里菜のそういうところが、とても好きだし尊敬していた」

 あたしはうなずいた。明るくて前向きでひとの悪口を言わないなんて……。里菜さんは素敵な人なんだな。

「俺は里菜と会える時間を大切にしていた。でも徐々に、俺との約束も守れなくなることが増えた。人気が上がるにつれて、異性関係のウワサも出てくる。里菜は笑って、そんなのデマに決まってるでしょ。わたしが好きなのは朔也だけよ、と言っていた。最初は信じたよ。里菜が俺を裏切るはずないって。でもあの頃はまだ精神的に幼かったから、いつしか里菜の言葉を疑うようになってしまったんだ。──俺はね」

 朔也さんは一度あたしの方を見てから姿勢を正し、今度は空を見上げた。

「里菜の弾くピアノが好きだった。陽気で明るくて。……俺はどうしても正確さを重視してしまうから、里菜の様な自由な弾き方が出来ない。だから憧れていたし、何よりピアノを頑張っている里菜を見るのが好きだったんだ。恋人であり、ライバルでもある里奈と、俺は一緒に成長していきたかった。でも 彼女はピアノを忘れてしまった。いや、ピアノを弾いてはいたよ。でもそれは、ピアノも弾けるモデル≠ニして売り出そうとしていたからだ。ピアノを弾くことが人気を出すための、ただの手段になってしまったんだ」

 朔也さんは空から地面へと視線を移した。暗くて、空虚な眼差し。

「高二の夏休みに入ったある日、俺は里菜と連絡を取った。この先二人の関係をどうするのか、話し合おうと思って。夏休みは稼ぎ時だったのか、都合の良い日はなかなか見つからなかったけど、どうにか話し合う時間を作ってもらうことが出来た。里菜は俺と会う場所に、夜の公園を指定してきた。

 多分、彼女は俺と会っているのを、ひとに見られたくなかったんだろう。俺たちは付き合っているのにね……。言い争いはしたくなかったから、落ち着いて話そうと心に決めて、約束の場所まで行った。里菜は会った途端、何度も謝ってくれた。人目に付かない暗い公園で、俺にしがみついてごめんね、ごめんね、朔也=c…って。俺は里菜を愛おしく感じた。──その時は」

 朔也さんは深く、ため息をついた。

「里菜は時間を気にしながらも、自分の気持ちを俺に話してくれた。今はモデルからタレントになるための大事な時期だから、なかなか会えない、と。わたしは自分がどこまでやれるか、挑戦したいの。朔也とも一緒にいたいけど、いま仕事を辞めてフツウの女子高生に戻っても、わたし、自分に飽きると思う。

 もう少し待って。そうしたら、朔也が自慢できるくらい有名なタレントになるからってね。俺は理解した。少なくとも、頭では理解できたつもりだった。別に俺は将来、自分の彼女が有名なタレントであることを自慢するつもりはなかったけど、挑戦したいという気持ちはよく分かったし、応援してあげたいとも思った。俺たちはお互いの気持ちを確かめ合って、その日は帰った」

 朔也さんはいったん言葉を切った。あたしは何も言えず、話しの続きを待った。

「俺はもしかしたら、里菜の言う事に納得したフリをしていただけかもしれない。二人の気持ちは同じだと確信できた気でいたけど、どこか心の隅でわだかまりがあったんだ。俺は幼い頃からお母さん≠ェ何度も入れ替わった。だから自分の付き合う女の子には、ずっとそばにいて欲しいと思ってきたんだ。

 里菜の夢を認めたいと思う気持ちと、里菜を独り占めしたいという気持ちがせめぎ合っていた。その夜はよく眠れなかった。里菜を応援するなら、一度別れた方がいいのではないかという思いが頭をもたげていて……。──そして次の日、彼女は事故にあった」

 あたしは衝撃を受けて朔也さんを見た。朔也さんはどこか空虚な瞳のまま、あたしを見返す。

「里菜は仕事に行くためにスタッフの運転する車に乗って、高速道路で事故にあった。タイヤがスリップしたんだ。自損事故らしいけど、運転手は死亡、そして彼女は事故以来この六年間、一度も目を覚まさないままなんだ」

 朔也さんの静かな声が、あたしの脳に届くまで少し時間が掛かった。朔也さんは今、なんて言った? この六年間、一度も目を──覚まさない……?

「今日はね、彼女の入院する病院に行ってきたんだ。二年くらい前までは、里菜のお母さんが自宅で面倒をみてきたんだけど、体調を崩されてしまってね。最近はずっと入院してる。俺は月に一度くらい、必ず里菜に会いに行く。なんとなく、そうしないといけないような気がして」

 朔也さんはあたしから目を逸らし、また前屈みになって肘を脚の上に置き、見るともなく下を向いた。

「会いに行くといっても、里奈に直接会えるわけじゃない。お母さんが会わせてくれないんだ。点滴だけで生きている里菜は、ひどくやつれて別人のようになってしまった。あなたには綺麗な里菜だけを覚えていてほしい、と言って」

 朔也さんは、どこかに痛みを抱えているような、憂鬱そうな顔になる。

「俺は面会に行くたび、お母さんから話を聞く。いかに娘の里菜が美しかったか、幼いころからどれほど明るく愛らしかったか。何度も何度も、同じ話を繰り返し聴く。──きっとお母さんは、里奈が事故にあって意識が戻らないと分かったとき、精神のたがが外れてしまったんだろう。

 そして最後にいつも俺に確かめる。里菜のことをあなたは忘れないわよね? 朔也くん。あなたはずっと……ずっとずっと、里菜の恋人でいてくれるわよね?=B俺は答える。もちろんですよ、お母さん=Bそう言わないと、きっと里菜のお母さんの心は、本当に壊れてしまうから」

「──朔也さん……」

 あたしも思わず、朔也さんのシャツの袖をつかんだ。どうしたらいいのか、何を言ったらいいのかも、分からない。ただ、下を向いた朔也さんの、痛々しい表情を見つめるしかなった。

「……魔法の世界に行きたいのは、俺の方かもしれない」

 絞り出すような声で、朔也さんは言った。腕からはかすかな震えが伝わってくる。あたしは朔也さんに身体を寄せた。朔也さんが寒そうで、少しでもぬくもりを与えたくて。朔也さんは下を向いたまま、あたしの方を向いた。手を伸ばし、しがみつくようにあたしを抱きしめる。

 あたしは胸が張り裂けそうだった。朔也さんが抱える現実は、あまりに重い。現実を投げ出したくても、里菜さんのお母さんの存在がそれを許してくれない。いや、普通のひとなら、きっと逃げてしまうだろう。でも愛情深い朔也さんにはそれができない。壊れそうなひとを放りだすなど、朔也さんに出来るはずがない。

 息もつけないほど強く抱きしめられているのに、そこにあるのは哀しみだけだった。あたしは朔也さんの背中に腕を回した。あたしに何ができるだろう。苦しんでいる優しい兄をどうやったら救えるのか──。

 二人の恋は終わっていない。別れたわけではなく、死んだわけでもない彼女。愛を引きずったまま、時を止めて眠り続ける。結末の見えない、終わりのない呪縛。

 もしかしたら誰にも、朔也さんを救うことは叶わないのではないか。それほどまでに、彼のファムファタルは重すぎる。

 あたしの涙が、朔也さんのシャツを濡らす。誰よりも大切な兄を抱きしめるしか、あたしには成す術がない。

 また風が通り過ぎる。太古から続く月明かりは、すがりつくように抱きしめ合う二人の姿を、ただ静かに、照らし続けるだけだった。