第四十八話  『本当のキス』


 あたしは呆然として朔也さんを見上げた。あたしの名前の由来など、母さんは教えてくれなかった。あたしの名前は、お父さんがつけてくれたものだったんだ……。

 朔也さんはもう一度、あたしの髪をそっとなでる。

「小さな小花が、どれほど俺の心を救ってくれたか分かるかい? 笑ったり、泣いたり、しゃべったり、転んだり、生き生きと動き回る小花が、どれだけ母を亡くした俺の慰めになったか──。小花が可愛くて、可愛くて、たまらなかった。

 俺は小花と本気で結婚しようと思っていたんだ。小さかったし、兄妹で結婚しちゃいけないなんて知らなかったからね。もちろん、今も小花がとても大切だよ。その思いは変わらない。小花が幸せかどうか、いつも気になって仕方ないんだ。慣れない生活で疲れてないだろうか、とか、仕事は順調だろうか、とかね」

 朔也さんは気遣うような笑みであたしを見下ろす。あたしは手の甲で自分のほっぺたの涙をぬぐった。朔也さんの深い悲しみと、大きな優しさが胸に沁みる。あたしはこの兄ともう一度会えたことを、心から神様に感謝した。

「毎日どう? ここでの生活は大変じゃないかい?」

 朔也さんに問いかけられ、あたしは言葉に詰まりながら答えた。

「……う、うん。今はとっても充実してるし、すごく幸せだよ。ニノさんの仕事は──お仕事っていうより、女子力のレッスンみたいな感じだけど──楽しくて、前の仕事よりずっといい」

「……前の仕事はどうしてやめたの? そういえば、今まで聞いたこと無かったね」

 あたしはゴクンと唾を飲み込んだ。以前の職場のことは、なるべく思い出したくなかったから。

「あの……あたし卒業した後、家から歩いて五分くらいの場所にある工場に就職したの」

「うん」

 朔也さんは先を促すように相槌を打った。あたしは、この人はあたしの話を聞いてくれるんだ、と思うと安心した。今まで誰にも言えなかった話を、朔也さんなら聞いてくれると確信できた。

「そこはプラスチック製品を製造する工場で、あたしは梱包と出荷を担当する部署に配属されたの。製品は包まなきゃならないから、ビニール袋をたくさん使うんだ。ある日、入社して一ヶ月くらい経った時に、ビニールがなくなったから倉庫まで取りに行ったの。そしたらそこで……」

 あたしは言いよどんで言葉を途切らせた。朔也さんは口を挟まず、続きを待っていてくれる。

「倉庫の奥の方で物音がしたから覗いてみたの。その場所はエアクッションがたくさんつんであるところで、そこでガサガサ音がしてるの。あたしは動物でも入り込んだのかと思って、確認する為に見てみた。最初に見えたのは脚。そして──次に見えたのが、裸のお尻だった。そのお尻に女の人の脚がからみついてたの」

 朔也さんは眼を丸くして口をへの字に曲げた。多分、言わなくても大体のことは察してくれたのだろう。

「エアクッションの上で抱き合っていた二人は、気配を察して振り返った。男の人はすぐに分かった。会社の専務だったから。下になっていたのは若い女の人だったけど、あたしの部署の人ではないから分からなかった。あたしは驚いて、大急ぎで自分の仕事場まで戻った。その日はそれでいつも通りに帰れたのだけど、次の日に専務から呼び出しがかかった」

 このことを話すのはつらい。あたしはふぅと息を吐いた。朔也さんは、あたしを抱く腕に少し力を入れる。

「専務の部屋は個室だったから、あたしは緊張してノックして、失礼しますと挨拶してから入った。専務は大きな机の席についていて、最初厳しい声で、そこに立って、と言ったの。それから専務は自分で部屋のドアの鍵を閉めに行って、あたしの後ろに来た。

 専務はあたしの肩に手を置くと、さっきとは打って変わって急に猫なで声になった。昨日のことは覚えてるかい? と訊いてきた。あたしは覚えてません、と答えた。でも専務はあたしの答えなんか、最初からどうでも良かったみたいなの。

 君の家庭環境は知ってるよ。母子家庭で妹さんもいるんだろ? 僕はこのことが社長にバレると非常に困るんだ。君は誰にも言わないと思うけど、お礼に毎月、特別手当をつけてあげよう。これはお互いの為なんだよ、って」

 朔也さんは呆れたようなため息をついた。あたしは深く息を吸って続きを話す。

「専務はそのあと、あたしにこう言ったの。君も僕と付き合わない? そうすれば、もっとおこづかいあげるよって。そして……そして後ろからあたしの首筋に口を当てて……。あ、あたしビックリして、離れようとしたら無理矢理羽交い絞めにされて、キ、キ、キス……されたの……」

「──なんてひどいことを……」

「逆らわない方がいい、クビになったら困るだろ? って、脅すように言われて……。君みたいなみすぼらしい子は、僕が相手にしなかったら一生、生娘のまま終わるよ、とも言われた。頑張って押し返そうとしたけど、すごい力で……。

 でもそこでちょうど、電話がかかって来たの。内線で、社長からだったみたいで、専務は大慌てで電話に出た。だからあたし、その隙に逃げたの。その日は早退した。でも次の日会社に行こうとしても、どうしても行けなかった。その後も何日か休んでしまって、結局、退職したの……」

 話し終えた途端、あたしは朔也さんに抱きすくめられた。最初は何が起こったのか分からなくて、ただ息を飲んでじっとしていた。朔也さんは右腕でしっかりあたしの肩を抱いて、左手で頭を自分の肩に引き寄せる。

「……酷い目にあったね。今まで、つらかっただろう」

 そう言われて、急激に涙腺が緩んだ。涙があとからあとから溢れて、止まらない。あたしの人生は物心ついた時から、ずっとツライことを我慢し続けて来た気がする。だから前の会社であった出来事も、耐えなければならない物事のひとつで、自分が酷い目にあったとか、可哀想だとか、あまり自覚したことがなかった。

 でもいま、朔也さんの腕の中でなぐさめられて、初めてそれが理不尽なことだったのだと自覚できた。あたしは悪い子だから、母さんの言うように不幸のかたまり≠セから、どんなに苦しい出来事があっても黙って耐えなければならないと思ってきた。同年代の恵まれた女の子たちとは、生きる道が違うのだと──

 でも本当は、そうじゃないんだ。あたしは……例えこんなあたしでも、つらいことはつらいと思ってもゆるされるのだと、朔也さんが教えてくれた。あたしは涙と一緒にあふれ出てくる、今まで感じたことのない安堵感でいっぱいになった。そこで、ずっと心にしまってきた一番つらい気持ちを、いつの間にか朔也さんに話していた。

「あたし……、あたし初めてだったの……」

「──何が?」

「キ……キス、したのが。あたしこんなだけど、初めてのキスは、素敵なものでありますようにって、ずっと神様に祈って来たの。それなのに……あんな……、あんなひとに……!」

 朔也さんはさっきよりずっと強く、あたしを抱き寄せた。何度も、何度も、優しくあたしの髪を撫でながら。

「俺は……そいつを殺してやりたいよ。いや、殺すなんて生易しい手段じゃ足りない。生きたまま、地獄の苦しみを味わわせてやりたいね」

 朔也さんは静かな声で吐き捨てるように言った後、しばらく黙ってあたしを抱きしめた。それから、ゆっくりあたしから身体を離す。あたしと朔也さんの間に、夜の風がスルリと滑り込む。朔也さんの体温が離れるのがつらい。贅沢なことだと分かっていても、もう少し、あの腕に包まれていたかった。

 朔也さんは抱きしめる腕をほどいたけど、両手をあたしの肩に置いた。そして「違う」と言った。あたしは何が違うのか分からなくて、月明かりの中、首を傾げて兄を見上げた。

「違う。そんなのはキスじゃない。小花が遭ってしまったのは、口と口がぶつかる事故みたいなものだ。キスは……本当のキスはそんなものとは違う」

 朔也さんはあたしの前髪に手をやり、指で梳きながら後ろへ流した。そしてまた、愛おしむようにあたしを見る。その唇に、柔らかく甘い笑みを浮かべる。

「俺はね、魔法が使えるんだよ。神使の力はなくしたけど、新月から生まれる月の光で、夢の世界を作ることが出来るんだ」

「……夢の世界?」

「そう、夢の世界。今からここは現実の世界じゃない。だから、俺達は兄妹じゃない」

 あたしは目を見開いた。朔也さんの瞳は艶めいている。微笑を浮かべた顔は、大切なお姫様を手に入れた本物の王子様のように、甘くて優しい。あたしはうっとりと朔也さんを見つめた。ほんのり輝く月の光が、ここを現実ではない場所にいざなってくれたように思える。まるで、本当に魔法にかかったみたい。

「俺は小花の恋人だ。誰よりも、世界の誰よりも小花を愛してる」

 朔也さんはそっと、あたしの頬に指をすべらせた。あたしの肩を引き寄せ、顔を近づけてくる。あたしは夢見心地のまま、自然に目を閉じた。朔也さんの唇があたしの唇と重なる直前、「愛してる」とささやくのが聞こえた。

 朔也さんの唇は、渇いていて少し冷たく感じた。でも彼が更に顔を傾け、もう少しだけ深く唇が重なると、とろりとした湿り気と熱さがあたしの口に忍び込んできて、全身にしびれが走る。朔也さんはあたしの顎に手をやり、顔を上向かせた。いちど唇を離し、もう一度くちづける。どこまでも、どこまでも甘い、キス。

 これが本当のキス=c…。