第四十七話  『二人でひとつ』


 新に「留夏をお願い」と声をかけて、玄関に向かう。留夏はテレビのアニメを夢中で見ていたけど、あたしがいないことに気がついて追いかけて来ては困る。外はもうかなり薄暗いし、この時期は蚊もいっぱい飛んでいるからだ。

 あたしは虫除けスプレーを全身にかけて外に出た。夕闇はすでに濃くなり、太陽の残照が物悲しげにほのかな明るさを残していた。空気は湿り気を帯びている。ゆるく風が吹いているのに、まといつくような生ぬるさが大気を重く沈ませていた。

 中庭を抜けるまではぼんやりと足元も確認できて、歩くのは苦ではなかったけれど、 裏の林に入ると、さすがに懐中電灯をつけないと先が見えない。レッスン室を過ぎ、湿った土の小道を歩いた。土はさほど踏み固められていないせいか水の吸収が良く、水溜りでぬかるんだりしてはいなかった。

 土の匂いと樹木の匂いにホッとする。辺りは暗かったけど、あたしは霊感がないし、暗闇にこの世ならぬものを見てしまう可能性は低い。だから怖さはあまりない。あたしにとってこの世界で一番怖いのは人間だもの。いつだって、幽霊より怖いのは人間の方だ。

 あたしは朔也さんの姿を目指してズンズン歩いた。柔らかな土を踏みながら突然感じたのは、胸のうちから湧き上がる奇妙な郷愁だった。この小道の感触が、なんだかひどく懐かしい。あたしはここを知っている、と不意に思った。ハッキリとは思い出せないけど、三歳までこの家にいた記憶が、あたしの中に残っていたのだろうか。

 捉えどころのない、うすい記憶を追いかけているうちに、白っぽい影が前方に見えた。すぐに朔也さんだと分かった。彼はいつもレッスンのとき、白いYシャツにネクタイをきちんと締め、黒系のズボンを穿く。

 何を着ても似合う人だけど、ピアノの先生をやる時の朔也さんは更に男前が上がる気がする。ネクタイがいかにも社会人という感じで、そのスマートさにドキドキしてしまう。今はネクタイを外しているけど、シンプルな白シャツがスタイルの良さを際立たせている。

 朔也さんはあたしに横顔を見せて立っていた。振り仰ぐように上方を見上げている。あたしが来たことには絶対、気づいていたはずだけど、こちらに視線は向けない。

「──この木」

 あたしが朔也さんから少し離れた場所に立ち止まると、朔也さんが言った。

「この木はヒトツバタゴというんだ。通称ナンジャモンジャとも言われる。毎年五月になると、とても美しい花をつけるんだよ。白い、小さな花がいっせいに咲く。青葉に雪が降り積もったようになるんだ。清らかで、すごく華やかでもある。俺の母が大好きだった花なんだ」

 朔也さんはあたしを見て微笑んだ。その時、風が吹き抜け、湿り気のある空気が少しだけ軽くなった。夜の闇が夕焼けの残照を覆い隠し、急激にあたりが暗くなった気がする。その代わり、月の光が強さを増した。

 梅雨時の月明かりは冬のような鋭さが無く、艶めいていてどこか暖かい。しっとりとした月光は、ほわりと辺りに拡散し、朔也さんの顔もさっきよりよく見えるようになった。あたしは足元に向けていた懐中電灯の光りを消した。

 暗闇の中、月の光を頼りに見る兄の顔は少し物寂しそうで、このまま夜の中に吸い込まれそうだった。あたしは思わず、手を伸ばした。あり得ないけど、朔也さんが消えてしまいそうで怖かったから。

 あたしの指先が朔也さんの腕に触れる。朔也さんは少しだけ目を見開いてあたしを見た。それから微かな笑みを見せると、右腕をあたしの肩に回して引き寄せた。

 そのまま、朔也さんは木に目を戻した。あたしは朔也さんとの密着度の高さに赤くなり、心臓もドキンと暴れた。でも朔也さんは、あたしを恋人として抱き寄せたのではない。どう考えても兄としての行動だ。だからあたしは、大人しくその手の中におさまった。

「母が死んだとき、俺は魂の抜け殻になった」

 静かに、朔也さんは言った。あたしは一緒にヒトツバタゴの木を見上げながら、何も言わずに朔也さんの話を聞いた。

「文字通り、魂が抜けてしまったんだ。俺の母の実家は元々、神職についていてね。祖父は八咫烏(やたがらす)を祀る烏川神社の神主をしていたんだ。うちの家系は代々、不思議な能力を持つ者が生まれる。

 八咫烏は神の使いだから、その神使(しんし)としての力を持つものが、血筋の中に三人存在するんだ。今現在、八咫烏がついているのは、祖父の後をついで神社の神主をしている俺の伯父と従弟の志門(しもん)、そして──俺、だった」

 表現が過去形だったので不思議に思い、あたしは朔也さんを見上げた。朔也さんもあたしを見て、少し苦い笑みをキレイな顔に浮かべる。

「神使としての八咫烏の力はね、自分の意識を外に出して、自由に飛ばせることなんだ。分かり易く言うと、幽体離脱して自由に出歩けるような感じかな」

 あたしはポカンとした。そんなすごい能力を持つ人間が、この世界にいるってこと?

「もちろん、神の使いとしての力だから、私利私欲の為に使うことは許されない。というか、そんな風に使わない人間だけにしか、神使の力は与えられないものなんだ。でも俺は、その禁忌を犯した」

 あたしは息を呑んだ。また一陣の風が吹き、ザワリと木の葉を揺らす。

「母が死んだとき、俺は自分から抜け出して母の魂を追いかけた。その時俺は四歳だったけど、それは決して、してはならないことだと分かっていた。それなのに我慢することが出来なかった。母が消えてしまうのが恐ろしくて、天に昇っていく母の魂を、死に物狂いで追いかけたんだ。

 母は俺のことを、この世に叩き返した。ものすごい拒絶だった。母も烏川家の血筋だから、巫女の力があったのかもしれない。母の魂は泣いていた。泣き叫びながら、来てはダメ、帰りなさい! と叱られたよ。お蔭で俺の魂は無事身体に戻ったけど、数日間意識が戻らず、高熱に苦しんだ。そして熱が下がった後に、俺のカラスはどこかに消えていたんだ」

 朔也さんは自嘲的な笑みを浮かべ、左手を上げて自分の髪を梳いた。

「俺の髪はもともと真っ黒だったんだよ。でもカラスが逃げたあと、こんな風に色が抜けて茶色くなってしまったんだ。まぁ、してはいけないことをしたのだから、仕方がないと思ってるけどね」

 朔也さんは笑って言ったけど、あたしは胸が締め付けられるような気持ちになった。そんな能力があれば、天に昇るお母さんを追いかけてしまうのは当然のことだと思う。増して朔也さんはまだ四つだったんだもの。きっとどこまででも、お母さんを追いかけて行きたかったろう。

 でもお母さんが朔也さんを拒んだ気持ちも分かる。もし息子が自分について来たら、朔也さんも一緒に死んでしまったかもしれないから。

 朔也さんは手を伸ばし、あたしの目の下を指でぬぐった。そうされてからあたしは初めて、自分が泣いていたことに気がついた。

「俺は絶望の淵にいた。母を失ってカラスの能力も無くなり、茫然自失の状態だったんだ。でもそれを救ったのが、小花だ」

「──え?」

 あたしは驚きのあまり絶句した。朔也さんはクスリと笑う。

「静香さんが、生まれたばかりの小花を連れてうちに来たんだ。父は浮気した新の母親とは結婚しなかったけど、静香さんとはちゃんと籍を入れた。多分、かなり強引に迫られたんだろう」

 ……うん。母さんの事だ、相当強引に迫ったのは想像にかたくない。

「俺は新しい母親にはなじめなかったけど、小花のことは可愛くてたまらなかった。小花の小さな手と小さなぬくもりが、母を失った俺の、心の空洞を埋めてくれたんだよ」

 朔也さんは優しく、あたしの髪をなでる。

「木花咲耶姫(このはなさくやひめ)って知ってる?」

 急に言われて、あたしはきょとんとして首を横に振った。朔也さんの眼差しは愛おしそうにあたしにそそがれている。あたしはドギマギするあまり、めまいがしそうになった。

「木花咲耶姫は、古事記に出てくる神様だよ。美と繁栄をつかさどる神で、富士山の浅間大社にも祀られている。小花がこの家に来たとき、生まれてから一週間と少ししか経っていなくて、まだ名前が無かったんだ。小花の名前をつけたのは父なんだよ。

 母が死んで落ち込んでいた俺が、小花のおかげで元気を取り戻した。俺の名前の朔也は、漆黒の髪から新月をイメージして母がつけた名前だけど、俺たち兄妹が、ずっと仲良く幸せでいられるようにと、コノハナサクヤから取って父が名づけたんだ。だから、俺たちは二人でひとつなんだよ」