第四十六話  『レッスン』


 お昼ご飯は新の予定通り、ニノさんのお店の近くにあるラーメン屋さんで食べた。そしてもう一度自転車屋さんに戻る。新から家までの道のりを詳しく教えてもらい、先にバイクで帰ってもらった。

 あたしは新しい自転車に乗って帰宅した。自転車は考えられないほどペダルが軽くて、気持ちよくスイスイ進む。通行人に不気味がられたかもしれないけど、無意識に顔がほころんでしまう。

 家には二十分くらいで到着した。午後は留夏と一緒に虫取りをしたり、近所を歩きまわったりした。新は真面目に夕飯の買い物に出かけ、味がイマイチなハンバーグを作ってくれた。

 そんなこんなで、あたしの白金家での日々は過ぎていった。ニノさんのお店のバイトは店番から始まり、レジの打ち方や商品の管理は少しずつ覚えていくことになった。来店するお客さんはニノさんの顔見知りの、いわゆる顧客≠ニ言われる人たちが多く、混みあって忙しくなることは今のところなかった。

 あたしはニノさんに立ち方から歩き方まで細かく指導された。「パーティではヒールのある靴を履くんだから慣れとかなきゃダメよ」と言われ、練習用のパンプスを買って(お金を出してくれたのは朔也さんだけど)、勤務時間中は常に履くようにした。

 最初は靴擦れが出来てしまい、足がカットバンとテーピングだらけだった。バランスが取れなくて、よろけて商品棚に激突したこともあった。ニノさんからは脚の筋肉を鍛えるように厳しく言われ、毎日朝晩スクワットすることが日課になった。

 それともう一つはお化粧。ニノさん曰く、「付け焼刃の化粧ほどみっともないものはない」ということだった。実際やってみると、ニノさんの言うことは的を射ていると思った。ファンデーションを塗るのも、アイシャドウにアイライナーやマスカラ、チークをのせるのも、口紅を綺麗に引くのも、すべてかなりのコツがいる。

「アンタ、目がパンダになってるわよ。場末のホステスじゃないんだから、塗り過ぎ、のせ過ぎはダメよ。ナチュラル! 目指すはナチュラルだからねっ」

 ニノさんに何度も注意され、あたしは毎日、見たくもない自分の顔を鏡に映して頑張った。そして最近やっと、薄付きのナチュラルメイクが出来るようになった。これが練習もせず、いきなり化粧をしてパーティに行くことになったら、おてもやんみたいになってしまっただろう。何事も慣れは大切なのだと、ニノさんから教わった気がする。それにしても、キレイになるのって大変なんだなァとしみじみ思う。

 白金家の兄弟たちの生活も、段々分かってきた。朔也さんは日曜日以外の日中、ピアノの生徒さんの出入りが常にあるらしい。夜も二度ほどルディさん≠ノ変身して、ゲイバーに出掛けて行った。金色の髪にタイトなスカート姿で「じゃあね、小花。行ってくるワ」と高めの声で言われた時は、最初とは違う意味でヘンな気分になった。

 でもあたしは初対面の時、ルディさん≠フ方に会っているので、何とも言えない奇妙な懐かしさを覚える。朔也さんとルディさんが同一人物だとはどうしても思えず、兄の朔也さんはどこかに出掛けていて、姉のルディさんが現れたような感覚だった。

 ひとつ、摩訶不思議なことがある。朔也さんはルディさんになってゲイバーへ出勤し、夜遅く帰ってくると、なぜかあたしのベッドにもぐりこむのだ。朔也さんの帰宅は深夜一時頃なので、昼間慣れない勤務で疲れ切ったあたしは眠りこけているから、彼がベッドに入って来たのに気付かない。だから朝となりに王子様が寝ていて度肝を抜かれる事態になる。

 なんであたしの部屋に来るのか本人に理由を訊くと、「あの格好になると、小花の様子を見に行かなきゃいけないって気持ちになるんだ。なんか、クセみたくなってるのかな」ということだった。あたしとしては心臓に悪いからやめてほしい思いと、不謹慎にも嬉しいと思う気持ちがごちゃまぜになっている。「そのうち行かなくなると思うからしばらく我慢してくれ」という朔也さんの言葉に、ホッとしながらもガッカリしていたりする。

 新はバイトを掛け持ちしているらしく、日中いない時と夜出掛ける時がまちまちだ。どちらかというと夜が多い。職業はよく分からないけど、夜はホストクラブみたいな場所で働いていることはなんとなく分かった。

 朔也さんと新は、ほとんど毎朝(いけない時は夜)、近所をランニングしてくる。引き締まった躰は、そういう努力から来ているみたい。あたしも体力をつけたくて一緒に走ろうかと思ったけど、「速さについて来られないからやめとけ」と新に言われて諦めた。

 優くんは日中も夜も、家事当番の時以外は部屋にこもりきりだった。朔也さんによると、優くんは以前学校で酷いイジメに遭って、それ以来人間不信なってしまったらしい。直接会って話すと、小さい声ながらちゃんと答えてくれるし、とても礼儀正しい子なのだけど、いつもビクビクしている。

 どうやら彼の母親はかなりの教育ママで、不登校になってしまった息子をずっと叱り、攻め続けたということだった。朔也さんは優くんの運動不足を心配しているけれど、無理矢理外に出すことはしたくないみたい。

 どんなに身体を鍛えても、心が病んでいてはいずれ肉体も引きずられ身体を壊すことになる、と言うのが朔也さんの持論だ。「優には俺という、甘えられる相手がいる。自分が苦しい時、甘えられる場所があるなら頼った方がいい」と言っていた。

 留夏は毎日、気ままに過ごしている。あたしは午前中出勤前の時間に、留夏の相手をして遊ぶ。お昼ご飯は主に朔也さんか優くんが世話をする。朔也さんは自宅勤務なので、空いている時間は小さな弟の面倒をみて過ごすらしい。

 気になるのは集団生活のこと。この先、留夏の言葉が出るかどうかは分からないけど、義務教育を避けて通ることはできないから。朔也さんは焦らずに見守る方針らしいけど、留夏にはちゃんと平仮名を教えたり、絵本を読み聞かせたりしている。それでも、同世代の子たちと触れ合う機会がないのは、大きなネックになってくる。この近辺で支援学級のある学校があるかどうか、朔也さんは調べ始めている。

 あたしは例え話すことが出来なくても、留夏はとてもいい子だと思うし、可愛くてたまらない。普通≠ノ学校に行って、普通≠フ集団生活を送ることが、誰にとっても良いことなのかどうか、あたしには分からない。あたしが願うのは留夏の幸せだけだ。留夏が毎日安心して健やかに過ごせるように、あたしは自分が出来ることをやっていってあげたい、と思っている。

 そんな風に少しずつ、きょうだい達のことを知って行きながら、あたしは慌ただしくも充実した日々を過ごしていた。




 そしてパーティまであと三日となったその日──。

 日中はひたすら雨が降り続け、夕方になってやっと雲間から日の光が差し込んだ。雨の割には暑い日だった。気温は下がらないまま日が傾き、今も梅雨時らしくジメッとしている。朔也さんは午後の数時間、生徒さんが途切れた間にどこかへ外出していた。あたしはニノさんのお店が定休日でお休みだったので、一日ゆっくり、部屋の掃除をしたり留夏と遊んだりして過ごした。

 朔也さんは帰宅してから、なんだか沈んだ顔をしていた。今日最後の生徒さんは小学校低学年の女の子で、「ばいばい」と言われて朔也さんは微笑んで手を振りかえしたけど、見送った後また無表情になった。

 夕食当番はあたしで、メニューはいなり寿司と肉じゃが。昔、自転車をくれた近所のおばあさんに作り方を教わったいなり寿司は、みんなから絶賛された。

 あたしが晩御飯の後片付けをしていると「少し外に出てくる」と声をかけ、朔也さんは外に行ってしまった。あたしは新のことをチラリと見た。新は夜のバイトが休みで、台所のテーブルにつき、あたしの入れたコーヒーを飲んでいるところだった。新は片方の眉を上げて、あたしの顔を見返した。あたしは玄関のドアがバタンと閉まる音を聞いてから、新に向かって問いかけた。

「なんか、朔也さんの様子おかしくない?」

 新は兄が出て行ったドアをしばし見つめた。それから深く溜め息をつき、椅子の背もたれに寄りかかりながら、気鬱そうに口を開く。

「病院にいった日は、大抵ああなる」

 あたしはビクッとした。

「病院? 朔也さんはまさか……何かの病気なの?」

「いや、違う。兄貴自身の健康の問題じゃない。病院には、ただお見舞いに行くだけだ」

「お見舞い?」

「うん」

 新はら少し考え込むように、じっと空を見つめた。それから真っ直ぐ、あたしを見る。

「気になるなら、兄貴を追いかけてみろよ。病院に行った日は、必ず独りで裏の林に行くから。中庭を通ってレッスン室の奥に向かうんだ。暗いから懐中電灯を持っていけよ」

 あたしは新に感謝して、すぐに後を追いかけた。朔也さんのことが気になる。普段のあたしなら、落ち込んでいて、独りになりたそうな人に関わるのは避けるところだ。でも相手は朔也さんだもの。何かあたしで役に立てることがあるなら、力になりたい。