第四十五話  『心は女』


「大体、髪型からしてすでに気を抜きすぎよ。ザンバラに垂らしておくだけなんて、女として全くなってないのよ。それにね、もっとバーンと胸を張りなさい、胸を! せっかくそんな立派な、ホンモノのおっぱい持ってるんだから、ガンガン自慢しなさいよ」

「は、はぁ」

 ニノさんから鼻先に指を突きつけられたあたしは、やっとそれだけ答えた。

「もう、なんなのよ、その気のない返事は! あんたねぇ、アタシから見たら本物のおっぱいを持ってるってだけでも、死ぬほどうらやましいのよ。アタシはこの道に入ったときおっぱいが欲しくて欲しくてたまらなかったの。

 でも手術とかって怖いじゃない? しょうがないから自然な方法で豊かなバストを手に入れようと決心して、ムチャクチャ胸筋を鍛えたのよ。そうすれば筋肉で胸が膨らむでしょ?」

 ニノさんはグッと胸を張る。確かに立派なバストだった。ハリウッドのアクションスターもかくやと思われるほどの、マッチョな体形。新とあたしはついつい両手を叩いて賞賛してしまった。

「すばらしい!」

「ワンダフルッ」

 せっかくふたりで褒めたのに、ニノさんは眉を曇らせ憂いのあるため息をつく。

「まぁね。ただ、おっぱいが出来たのはいいけど、余計なとこもムキムキになっちゃって、ブラジャーなんか全然似合わないのよ。あんたはねぇ、小花。ちゃんとした女に生まれたことを、神様に感謝しなくちゃいけないわ」

 ニノさんに言われ、あたしはハッとした。あたしは今まで確かに、自分が女であることをそれほど疑問視することなく、性別については特別迷わずに生きてこられた。でもニノさんみたいに、自分の心とからだが違う性を持つことで、ものすごく悩んでいる人は少なからずこの世界にいるんだ。

 ニノさんの心は女。でもこれほどたくさんのカワイイ女性下着に囲まれていても、どれひとつ満足につけることができない。それはきっと、言葉に尽くせないほど、つらくて苦しいことなんじゃないだろうか──

 あたしはギュッと目を閉じた後、思い切って少しだけ背筋を伸ばし、なるべく真っ直ぐ前を向いた。そんなあたしをニノさんは、腕を組み軽く足を開いてじっと見ている。そして小さくうなずいた。

「そうね、なかなかいいわ。まだまだ薄暗い陰がつきまとってるけど、さっきよりずっとマシよ」

 ニノさんはあたしに一歩近づき、大きな手であごをつまんで上を向かせる。スキなくがっつりメイクされたニノさんの顔を真正面から見ることになってしまい、あたしは少しひるんだ。

「小花。あんたはせっかく悪くない顔立ちしてるんだし、ちゃんと訓練すればどんどん印象変わるわよ。あんまり自信過剰な女だとイラつくから、ほどよく、そつなく、イイ女になれるように、アタシがしっかり教育してあげる」

 そう言ってニノさんはにっこり笑った。あたしは笑い返そうとしたけど、ほっぺたが引きつって上手く笑えなかった。教育って……一体どんなことされるんだろう。

「そうだなぁ、こーんな下着が似合うくらいの、イイ女にしてもらえると嬉しいな」

 新は近くの棚から取ったと思しき、黒いレースのキャミソールの肩ヒモ部分を指でつまんで、プラプラ揺らしながら言う。下着はシースルー。見ているだけで目のやり場に困るほどスケスケだ。ニノさんは下着を自分の身体に当て、楽しそうに左右に揺れている新を見て、フンと鼻を鳴らした。

「バカね、あんた。小花がそんなキワドイ下着を着て家の中ウロウロしてたら、目のやり場に困るでしょ? 例え欲情したって、妹じゃ襲い掛かるわけにもいかないし」

 新はニヤリと笑うと、持っていたキャミをワゴンの上にポンと放った。そして軽く口笛を吹きながら、あたしの後ろに回って来る。新はあたしの背後から腕をまわし、肩の部分を抱きしめると、頭の上にアゴを乗せた。

「オレは別に血のつながりなんかどうでもいいね。小花がめちゃくちゃイイ女になったら、マジで襲っちゃうかも」

 ああもう、またバカなこと言ってるし……。頭の上にアゴ乗せてしゃべられると、てっぺんが凄く痛いんですけど。

 ニノさんは組んだ太い腕にグッと力を入れて少し反り返る。腱が浮き出た腕はたくましく、見るからに力強い。背が高い上、ヒールのあるサンダルを履いた彼は、新を見下ろすと鋭く目を眇めた。

「──あんたがもし、妹の処女を奪うようなヒトの倫理に反することをしたら、アタシがそのイカレチ○ポを根元からもいでやるワ」

「その前に兄貴に殺される」

 新の声には本気の恐れと、うんざりしたような諦念の思いがにじんでいた。新の表情ははもちろん見えなかったけど、諦め切った遠い目をしていることはなんとなく分かる。新は「あーあ」、と大きくため息をつくと、あたしの肩に回していた腕を解いた。そして背筋を正し、ニノさんを改めて正面から見た。

「それじゃあ、新野さん。オレの妹ときちんと雇用契約を結んで下さい。なるべく時給ははずんでやってくれよ。こいつが自分で好きな下着くらいを買えるようにさ」

 新はニノさんの方に向けてあたしの背中を軽く押すと、フラリと店内を歩き始めた。棚の奥で「おおっ、このブラすげぇ」とつぶやいているのが聞こえてくる。ニノさんはあたしを見ると肩をすくめて、苦笑をまじえながら言う。

「あいつは悪いヤツじゃないんだけど、可愛い女の子には目がないからね。まぁ、口ではあんなこと言ってても、無茶はしないと思うワ。でも小花はこれから、ちょっと振り回されるかもしれないわね」

 すでに充分、振り回されてます。

「じゃ、こっちいらっしゃい。書類にサインしてもらうから」

 あたしはニノさんについて行き、レジ横のテーブルで書類にサインした。時給は八五〇円と書いてあり、この地域の最低賃金よりちょっと高く設定されている。あたしは嬉しくてお礼を言った。

 契約書の経営者の欄を見ると、新野勝利(にいのかつとし)、となっていた。あたしはニノさんに「お名前は勝利さんっていうんですか?」と聞いてみた。

「ええ、そうよ。男らしい強そうな名前でしょ。戦いに勝利しろって意味でつけたらしいわ」

「──戦い?」

「ええ、戦いよ。人生は戦いの連続だものね。名は体を表したのか、商社に勤めてたころは取引先や顧客との戦いに勝ちまくって、年収も一千万あったわ」

 あたしは衝撃のあまり隣に座ったニノさんを凝視した。口も目も驚きでパカッと開けて。椅子に腰掛け足を組み、派手な化粧をしたこの人がバリバリの商社マンだったとは、そう簡単に想像がつかない。

「あたしはもちろん、女と結婚する気もなかったし、告白した男からは大抵キモがられるから、仕事に熱中するしかなかったのよ。でもある日突然イヤになったの。何もかもがね。それで、馬車馬みたいに働いて得たキャリアを全て投げ出したわ。だけどね──」

 ニノさんは何かを見据えるように空を見つめる。

「得たものは大きいわ。あたしがゲイだってことで、さんざ親も傷つけたし、離れていった友人もたくさんいる。でも分かってくれる人もいるのよ。それに何より自由だわ。今の年収なんて雀の涙だけど、毎日が楽しいし、とってもラク。ま、サラリーもらってる頃にガッチリ貯金はしてたしね」

 ニノさんはにっこり微笑むと、組み合わせた手を片頬に当て、小首をかしげてあたしを見る。

「一番欲しかったのは、女のカラダなの。あたしはもう、自分では手に入らないとあきらめてるけど、アンタに会えたもの」

「──は?」

 あたしは戸惑って聞き返した。ニノさんはウキウキしたように笑う。

「ウフフ、しっかり遊ばせてもらうわよ。もう書類はそれでいいから早速採寸しましょ」

 書類をきっちりクリアファイルに挟み、引き出しにしまってからニノさんは立ち上がった。その辺の几帳面さを見て、彼がしっかり仕事をこなしてきた人だとうかがい知ることができる。ニノさんは昨日ブラのサイズを測った試着室に向かってあたしをうながしながら、店の中にいる新に声をかけた。

「新、これから小花の体のサイズを測るから少し時間掛かるけど、あんたどうする? 近所のお店でも回ってくる?」

「かぶりつきで見学していいんなら、ここにいる」

 新の声はたくさん商品が並ぶ棚の奥の方から聞こえる。「絶対ダメ」、とあたしが答えると、新はチッと舌打ちした。

「まー、いいや。今更どっか行くのもめんどいし、ここで待ってるよ。なァおっさん、面白そうな雑誌ない?」

 新は大儀そうにこちらに向かって歩いてきた。昨日、朔也さんが座って待っていてくれたレジ横の椅子に同じように腰かけ、ニノさんに差し出された雑誌をパラパラめくりはじめる。雑誌の中には難しそうな経済誌もあって、新は顔をしかめながら違う雑誌に手を伸ばした。

 あたしはニノさんと小部屋に入った。身体中を計測する為に、ブラとパンツだけの姿になる。ヘルスメーターで体重を測るのはもちろんのこと、壁付けの身長計で背の高さを測り、スリーサイズもしっかりメモされる。

「アナタ、痩せてるくせにウエストは結構あるわね。もうちょっとしぼりなさい」

 最後にニノさんからチクリとクギを刺され、計測は終了した。そのあと、明日十一時までに来る約束をしてから、新と一緒にニノさんのお店を出た。明日は初出勤でドキドキする。でもとにかく頑張ってやるしかない。