第四十四話  『キスの効果』


「うぎゃ!」と言ってあたしは飛びのく。新は「アハハ」と笑いながら立ち上がった。

「よし、それじゃニノのおっさんとこ行って、メシ食ってから帰ろうぜ」

 新はテーブルに伏せて置いてあった伝票を取ると、さっさとレジに向かって行ってしまった。あたしは隣のミセス達や、他の女性たちの注目を浴びながら、左のほっぺに手を当てて、なんとか立ち上がる。

 あたしはほとんど茫然自失の状態でお店の外に出た。新はまだレジのところにいたけど、お店の中にはいたたまれなくて、先に出てきてしまった。少ししてから外に出てきた新に、とりあえずお礼を言う。

「あ、ありがとう。ごちそうさまでした」

「こちらこそ、ごちそうさまでした〜」

 おどけて新が言う。あたしはほっぺに手を当てたまま、ジットリ新を睨みつけた。

「なんであんなことしたの?」

 あたしは恨みをこめて聞いた。新のキスがあと数ミリずれていたら──兄妹でキスしたことになるところだった。

「決まってんだろ。小花にオレのことを、死ぬほど男だって意識してほしいからさ」

「だから、意味わかんないってば!」

 あたしは必死で訴えた。新はあたしを無視してスタスタ歩き出す。自転車屋さんの駐車場に停めておいたバイクの前に戻ると、ヘルメットをあたしに差し出した。

「落ちないようにしっかり抱きついておけよ。オレ達は兄妹なんだから、恥ずかしがることないだろ?」

 皮肉気な笑いを口元に浮かべて、新があたしに言う。今度はさっきと逆のこと言ってる……。もう、ほんとにワケがわかんない。新は自分のヘルメットを被ってバイクにまたがった。

 あたしはいい加減頭にきて、ひとりで歩いてニノさんのところまで行こうと思った。でも、正直に言うと、ここがどこだか分からない。初めて乗るバイクが怖くて目をつぶっていたせいだ。家を出た時、新がどっちの方向に向かったのかまるで覚えていない。

 あたしは仕方なく、ヘルメットをかぶった。またよじ登るようにしてバイクの後部座席にまたがる。どうにかバイクには乗れたけど、新の身体に腕を回すのがなんだか悔しい。

 何が悔しいって、さっきのほっぺにチュ≠フせいで過剰にドキドキしてるから。あんなことワザワザしなくても、新のことを当然兄だと思えないし、充分オトコだって(しかもイケメンの)意識してるのに……!

 新が体半分を後ろにひねって、あたしの膝をポンポンと叩いた。あたしは渋々、新の背中に抱きついた。さっきのキスの効果は抜群で、必要以上に彼のカラダを意識してしまう。薄いブルゾンから伝わってくる引き締まった腹筋や、細いのに大きく感じる、筋張って堅い男の身体。

 ダメだ、静まれ、と命令してるのに、あたしの心臓はフル回転で動いている。バイクのエンジンと、走行の振動にも負けてない。きっとあたしのドキドキは、背中からに波のように新の全身に伝わっていると思う。

 あたしはヘルメットの中で赤くなった。朔也さんにも、新にも 惹かれてはいけないと分かってる。それなのに、あたしの身体は意思に反する反応を示す。なんだか体中がゾクゾクするような、下腹部が痛くなるような、ヘンな感じ。そんな風になってしまう自分が、どうしようもなく情けなくなる。

 ゴチャゴチャ考えているうちに、バイクは止まり、エンジン音もなくなってしまった。あたしは最初に降りた時のように、気をつけながら後部座席から地面に降りる。

 ヘルメットを取って周りを見ると、すぐ目の前にニノさんのお店があった。新は駐車場ではなく、お店のウィンドウディスプレイの前に、バイクを停めたのだ。新はあたしの手からヘルメットを取ると、「行くぞ」といってお店のドアを開ける。

 あたしは急に緊張してきた。これからニノさんと雇用契約を結ぶと思うと、胃のあたりがキュッと痛くなる。時刻は十二時少し回ったところ。カランコロンとドアにつけられたベルが鳴り、新が中に入った。

「いらっしゃいませ」、と昨日聞いたのと同じ野太い声が聞こえる。どうやら今日のニノさんはちゃんと店内にいたらしい。

「よォ、おっさん。更年期の具合はどうだ?」

 ランジェリーのぶらさがる棚から顔を出したニノさんに向かって、新が彼らしい挨拶をした。あたしもすぐに「こんにちは」と挨拶する。

「あーら、新じゃない。相変わらずむしゃぶりつきたいくらいイイ男なのに、腹の中はコールタールより真っ黒ね」

 ニノさんは見事なモデルウォークでこちらに向かって来ながら言った。今日のニノさんのいでだちは、ゆったりしたドレープの入った濃い赤のブラウスと、黒地にラメ入りのスパッツ。ヒール付きのサンダルをカタカタ鳴らし、お尻をフリフリ歩いてくる。新はニノさんに、にっこり笑いかける。

「お褒めに預かってどうも」

 ニノさんは呆れ顔で鼻から鋭く息を吐いた。

「あんたの脳みそって、褒め言葉しか受け取らないようにできてんのね。脳内花畑で羨ましいわ。それで今日は何? 新しい彼女の為にスケベ下着でも買ってあげるの?」

「ちげーよ。こいつはオレの彼女じゃなくて妹! スケスケのエロ下着なら、昨日すでにうちの兄貴が買ってやってるよ」

 新はあることないこと適当に言っている。あたしは、朔也さんはスケベ下着なんか買わないよ、と抗議しようとした。でもニノさんがものすごくイヤそうな顔で割って入る。

「ああ、ルディが連れてきたあの妹? スゴかったわねぇ。もうアタシ、新種の妖怪かと思ったもの」

 ニノさんはブルッと体を震わせる。それからチラリとあたしを見て、新に視線を戻す。

「あんたさっき、この子のこと妹って言わなかった? なあに? 白金家では何人もの妹≠ェ増殖中なの?」

「そんなワケないだろ。増えたのはひとりだけだよ。昨日小花に、ここでバイトしないかって言ったのは、おっさんじゃねぇか」

「ええ、言ったわよ。でもアタシが雇ったのはユーレイの方よ。こう髪の長い……柳の下に定住してそうな」

「そのユーレイがこいつ。昨日、髪切ったの」

「ぅえぇえっ! ウ……ウソでしょ!?」

 ニノさんはまじまじとあたしを見る。隅から隅までチェックしてから、ゴクンとつばを飲み込んだ。

「どういうことなの? 昨日とはまるで別人じゃない。あのユーレイはなんだったの。まさか……トラップだったわけ?」

「はァ? おっさんを何の罠にかけんだよ。小花はただ、美容院で髪を切っただけだぜ。なんで分かんないかなー」

 どの口がそんなことを言う、と思ったけど、あたしは何も言わなかった。ニノさんはじっと、探るようにあたしを見つめている。そうやって目をすがめながらあたしを見ていたけど、突然その目をカッと見開いた。

「分かったわ! あなたは確かに小花よっ。髪の綺麗さと服の可愛らしさでかなりごまかされてるけど、その猫背気味の立ち姿と自信のない表情に、ちゃんとユーレイの面影がある!」

 あたしは思わず感心した。ニノさんの目は鋭い。もちろん単に髪を切っただけでは、自信を持ち胸を張って立つことなんて、あたしには絶対無理だもの。

 今の自分のことはよく分からないけど、できれば今まで通り、目立たないように縮こまっていたいというのが正直な気持ちだから。