第四十三話  『いいから来いよ』


 あたしはとりあえず何か会話をしようと思い、姿勢を正して、新の手が自分の髪から離れるようにする。話題を考えて、訊いてみたいことを思いついた。

「ねぇ、新。ノンケってなに?」

 あたしの質問に、新は呆れた顔で背もたれに身体をあずけた。

「なんだ、そんなことで悩んでたのか?」

 実際はそうじゃなかったけど、知りたいことは確かだったのでうなずいておいた。

「ノンケってのはなぁ、ホレ、アレだよ。男にあっちのケがねぇってことだよ」

「ケ? ケって何の毛?」

「だからぁ……。男が男に持つソッチの気だろ」

 ──毛、……ねぇ。

 あたしは色々考えた。男の、ソッチの毛? どこの毛かしら。グルグル考えて、ハッと思いついた。この新が言いにくそうにする毛ってことは、シモの毛のことかもしれない。ノン毛。シモの毛がない。要するに、インモウがないってこと? そうか、朔也さんには陰毛がないんだ!

 いや待て。なんでニノさんは朔也さんの陰毛のことまで知ってるのだろう。一緒にお風呂でも入ったことがあるとか? ニノさんはオカマさんだし、朔也さんはよく分からないけどオカマさんの仲間みたいだし、同性同士、裸の付き合いをしたということ?

 ううっ、銭湯かしら? 温泉かしら? 入るとしたら異性≠ェいっぱいいる男湯なのかしら……。

 どうにも不毛なことを色々考えていたせいで、また新が心配そうにあたしを見ていることに気が付くのが遅くなった。新の視線には心配の他にも、こいつ脳みそ大丈夫か? という疑いの思いも見て取れた。やばい。朔也さんの陰毛のことなんか考えていたから、あたしは相当ヘンな表情をしていたのかもしれない。

「じ、じゃあ、ふぁむふぁたる≠チて何か知ってる?」

 あたしは自分のアホな表情から新の気を逸らす為に、違う質問をしてごまかした。晶子さんの言った言葉は、「ふぁむ」の先がなかなか思い出せなかったけど、どうにかふぁむふぁたる≠ニいっていたことを思い出せたのだ。

「ふぁむふぁたる? なんじゃそりゃ」

 新はキョトンとした顔になる。良かった。どうやらさっきまでのあたしのカオは忘れてくれたみたい。

「ふむ。そういうことはスグルペディアに聞いた方が早い」

 新はブルゾンのポケットから携帯電話を取り出し、素早く電話をかけた。ワンコールで相手は出たらしく、すぐに話し始める。

「ああ、優? オレ。あのさ、ふぁむふぁたる≠ノついての情報が欲しいんだけど、調べてもらえるか。うん、ヨロシクー」

 新は携帯の画面を指で軽く押して電話を切り、テーブルの上に携帯を置く。

「オレがこいつで検索してもいいんだけど、検索結果がズラーッと出てくるとオレはアタマ痛くなるタイプなんだ。その点、優はいつもパソコンいじってるから結果を出すのが早い。餅は餅屋ってとこかな」

 言うと新は、テーブルの上の携帯をコツコツたたく。そうしている内に携帯の画面が光り、ヴァイブレーターで震えた携帯がブーッ、と鳴る。

「おっと、さすが優くん。早いねぇ」

 新は携帯を手に取り、画面を見ながら指でチョンチョンつついた。どうやら優くんからの返事は、電話ではなくてメールらしい。

「なになに? ファムファタルとはフランス語で、運命の女、または男を破滅させる宿命の女、だって。おー、コワッ」

 新はメールを読んだ後ブルッと震えた。あたしは一瞬、頭が真っ白になった。

 ──男を破滅させる、宿命の、女……?

 あたしの背中に、ひやりとした冷たいものが走る。晶子さんの言ったことの内容を思い出すと、朔也さんには彼を破滅させる宿命の女がいる、ということになる。そしてその女性を打ち壊すのが、あたしの役目ってこと……?

「なんでそんな言葉知ってんだ?」

 新に聞き返され、あたしはハッとして顔を上げた。あたしを見つめる今の新の視線には、心配の影しか見えない。多分、あたしの顔色が急に悪くなったからだろう。

 あたしは答えるのをためらった。朔也さんを破滅させる宿命の女ことなど、新に話してもいいのだろうか。しかもそれを打ち壊す運命にあるのがあたしだ、と晶子さんが言ったなんて──。

 ためらったまま黙ってしまったあたしを、新は根気強く待っている。いつになく真剣で、真っ直ぐな視線。新は本当にあたしのことが心配なのかもしれない、と思った。それにファムファタルのことを新に聞いたのはあたしだもの。話を振ったくせにそのワケを黙っていたら、新も気分が悪いだろう。

「昨日 晶子さんがね、──あ、ええと、晶子さんはあたしの髪を切ってくれた美容師さんなんだけど──その晶子さんが、朔也さんのファムファタルを打ち壊す運命の女神が、あたしなんだって言ったの」

 新は大きく目を見開き、唇を引き結んだ。しばし、そのままじっとあたしの顔を見る。あたしと新の間に、微妙に張りつめたような空気が漂う。隣の席のミセスたちが、お互いをつつき合いながらヒソヒソ話を始める。

 新はひとつ息をつくと、あたしから目をそらした。そして腕を組み、ソファの背もたれに寄りかかる。

「小花がサク兄の救いの女神か……」

 ささやくように新が言った。なんだか、何か事情がありそうな様子。あたしは思い切って、新に聞いてみた。

「あの……それって、昨日新が言ってた朔也さんの彼女≠フことも関係あるの?」

 新は腕を組んだまま、上目遣いにあたしを見る。少し鋭い視線で怖い。あたしは無意識におびえた顔をしたのだろう。新はすぐに表情を和らげた。

「気になるか? 兄貴の彼女が」

 その質問にはかなりドキッとした。気にならない、といえば全くのウソになる。昨日、朔也さんに彼女がいることを聞いてからこっち、そのことがずっと、心から離れないくらいだもの。それでも、新にそのことを言ってしまったら、あたしは朔也さんを本格的に好きになった、と決めつけられてしまいそう。

 チラリと新を見ると、あたしの逡巡や動揺のすべて見透かすような瞳で、こっちを見ている。あたしは静かに息を吸い込んでから、なるべく誤解を招かないように注意して答えた。

「うん。気になるよ。実のお兄さんのことだもん。それに……晶子さんが言ったことの意味も分からないし」

「──まぁ、そうだよな」

 新はうなずくと、あたしから目をそらし、窓の外を眺めた。

「サク兄の彼女のことは、オレの口からは何もいえない。──今は」

「今は……?」

「ああ。小花には、そのうち兄貴が自分から説明するかもしれない。でもそれまでは、オレから話すワケにはいかない」

 あたしは思わず、息を止めた。新がこれだけ言うからには、言えないだけの深い事情があるのだろう。簡単には説明できないほどの何かが──

「あの美容師のオバちゃんが言ったことは、そうであるかもしれないし、ないかもしれない。オレは小花がサク兄の救いの女神になってくれれば──とも思う。でも……」

 そこまで言って、新は言葉を途切らせた。そして無言であたしを見る。新の目は妙に色っぽく、見つめられているあたしはドギマギしてしまう。顔に急に血がのぼる。赤くなったあたしを見て、新はふふん、と笑った。

「オレはお前にとって、いい兄貴になるつもりはないんだ。それにこの世界のしきたりに従うほど、真面目な人間でもない。兄貴には恩もあるし、尊敬もしてるけど、お前をモノにしたいと決めたら、世間体なんか気にせずに手に入れてやるつもりだからな」

 あたしはびっくり仰天して、座ったまま思い切り後ろに下がってしまった。もちろんすぐに、椅子の背もたれにぶつかってしまったけど、まさにドン引き状態だった。新の言うことは、全然意味が分からない。 どうしてさっきの話から、あたしをモノにするとか、そういうことにつながるの?

 新は慌てるあたしを、余裕の笑みを浮かべて見ている。あたしは急に腹立たしくなった。

「いっ、意味わかんない。あたしたちは兄妹なんだから、どうにもなるわけないでしょ」

 あたしは、なるべく冷静に聞こえるように、声のトーンを抑えようと思った。でも実際は、声が震えないようにするだけで精一杯だった。

「分かってるだろうけど、オレは小花のことを妹なんて思えないから。お前だってそうだろ? オレのこと実の兄だってしっかり自覚できてるか?」

「う、うん。できてるよ。もちろん」

 かなり苦しい返事をした。当然あたしだって、つい先日あったばかりの男性を血のつながった兄だと自覚することは、簡単に出来そうにない。でも、普通は兄妹で恋愛することも結婚することもしないし、してはいけないことになっているもの……。恋をすることなんて有り得ないはず。

 あたしはこんなに美形のお兄さん達と突然暮らすことになった、自分の運命を呪った。

「へえ〜、自覚できてるんだ」

 そう言って新は少し考えると、あたしに向かってチョイチョイと手招きした。あたしはなんだか怖くてためらった。新はまた畳み掛けるように「いいから来いよ」と言う。

 あたしは仕方なく、前かがみになって新の方へ顔を寄せた。そこで新はいきなり身を乗り出し、あたしの左ほっぺにチュッとキスをした。しかも唇の端、ギリギリの場所に。