第三十八話  『ナンパ』


 チョコレートの入った袋を持った留夏が、廊下を駆け戻ってくる。朔也さんは歩きながら手を伸ばし、廊下の途中で留夏を抱き上げた。

 留夏はビックリ顔で兄を見る。朔也さんは留夏の耳元で何かをささやいた。留夏はじっと大人しく兄の言葉に耳を傾けている。それから納得したようにうなずいて、ニコリと笑顔を見せた。

 朔也さんは留夏を抱っこしたまま真っ直ぐ廊下を進み、居間の方へ行ってしまった。一人残されたあたしはどうしたらいいか分からないまま、ただ立ち尽くした。

 背後でガチャリと音がして、玄関のドアが開いた。あたしはビクッとして振り向いた。その拍子に運動不足の首の骨がパキッと音を立てる。鼻歌を歌いながら玄関に入ってきたのは新だった。あたしと鉢合わせ状態になった新は「アレッ?」と声を上げる。

 なんとなく、昨日の出来事へのデジャヴを感じた。新がまた、あたしのことなんかいないみたいに横を通り過ぎるんじゃないかと思った。でも新は一瞬目を見張ったあと、スッと背筋を伸ばした。そして柔らかく微笑む。

 彼はさりげなくこちらに一歩近づき、軽く首をかしげてあたしを見下ろした。ひた、とあたしにそそがれる視線は優しく、甘く、きらめいている。なんだか精悍にさえ見える。茶色の髪がサラリと新の額をすべる。新は気遣うような、それでいて人懐っこい笑顔を見せてあたしに話しかけてきた。

「こんにちは。何か御用ですか?」

 新はさわやかに聞いてくる。なんか声色まで変えてる……。昨日とは百八十度違う新の態度に、あたしはもう、唖然として声も出なかった。

「あ、分かった! きみ新しいピアノの生徒さんじゃない?」

 新はまた一歩こちらに近づき、あたしの二の腕にそっと手を当てた。なんてさりげないボディータッチ……! しかもこんなに接近してるのに、あまり強引さや嫌らしさを感じない。新は少し自嘲的な笑みを浮かべると、軽くため息をつきながら言った。

「いいなぁ、兄貴のやつ。こんなにカワイイ子に教えられて……」

 つぶやくように言ったあと、パッと明るい笑顔になる。

「オレはここのピアノ教師、白金朔也の弟なんだ。名前は新だよ。よろしく!」

 あけっぴろげで人懐こい新の笑顔は、女の子ならどんな子でも、ボウッとなってしまうだろうと思うほど、魅力的だった。

「ねぇ、きみピアノもいいけど、良かったらギターも習ってみない? オレがイチからしっかり丁寧に教えてあげるよ」

 あたしは完全に絶句状態で固まってしまった。どんな態度をとったらいいのか全く分からない。ただひたすら突っ立って、昨日出会ってから一度も見たことのない新の甘い笑みを見返しているだけだった。

 新はそんなあたしを、男慣れしていないウブな女の子と受け取ったらしい(実際そのとおりなんだけど)。新はナイショ話をするように顔をあたしに近づけた。

「兄貴は誠実そうに見えるだろ? でもあれで結構スケベなんだ。むっつりってヤツ? 手が早いから気をつけたほうがいいよ。それに彼女もいるし」

 ──えっ?

「誰が手が早いって?」

 突然、朔也さんの声が割って入った。あたしは後ろを振り返った。居間のドアの前に腕を組んだ朔也さんが立っている。彼の脚には、留夏が両腕を回してしがみついていた。顔を真っ赤にして笑いをこらえながらこっちを見ている。

 新はギクッとして、あたしから少しだけ離れた。体裁を取り繕うように、自分の髪に手をやって指で梳く。それから軽く咳払いして話し出す。

「なんだ、兄さんいたの? 玄関にいつまでもお客さんを立たせておいちゃダメだろ。しかもこんな可愛い子。早く応接間に通してやれよ」

「もちろん、家に上がってもらうさ。小花、すまない。待っていてくれてありがとう」

 朔也さんがあたしに向かって言う。新はまたあたしに視線を戻して優しく笑いかけてきた。

「小花ちゃんっていうんだ。カワイイ名前だね。小花……うん? このか──?」

 新は少し不思議そうな顔をしたあと、パチンと指を鳴らす。

「ああ どっかで聞いた名前だと思ったら、コバナと同じなんだ」

 どうやら彼はまだ、あたしのことが誰だか分からないらしい。朔也さんはもう、我慢できないというように「ワハハハッ」、と笑い出した。留夏もとなりで、声も無く笑い転げている。新は一体何が起こったんだ、という顔でポカンとして二人を見ていた。

「だから、この子が小花なんだって」

 笑いすぎて涙ぐんだ目で、息も絶え絶えに朔也さんが言った。新は「へ?」とつぶやいた後、しみじみとあたしの顔を見る。あたしは何も言わずに新を見返した。

「……あの、なんかしゃべってくれる?」

 新が恐る恐る言ってきた。あたしはつとめて冷静な声で答える。

「桜森小花です」

「どっ、どえぇぇえぇー!!」

 新は大声で叫ぶと、一気に後ずさりして玄関のドアに張りつく。目を真ん丸にして、頬を引きつらせたまま、あたしを凝視している。

「た、確かにコバナの声だ……! でもまさか、そんな……。ウ、ウソだ。だって小花はサダコで貧相で……」

 新は放心状態で何事かブツブツつぶやいている。そんな新を無視して、朔也さんはあたしに言った。

「さ、小花、中に入ろう。ピザは頼んどいたからもうすぐ来るよ。手を洗ってサラダを作るのを手伝ってくれ」

 あたしは朔也さんに手を取ってもらい、履き慣れないパンプスを脱いでから、家に上がった。

「まさに、狙い通りだったよ。新が小花のことを分からなかったら、絶対ナンパすると思ったんだ。さっきバイクの音を聞いて、新が帰ってきたと分かったから、ワザとそこで小花に待っててもらったんだよ」

 朔也さんは実に楽しそうに言った。あたしは朔也さんが「待っていて」と言った理由がやっと分かった。

「待てよ!」

 新の声が後ろから響く。新も家に上がり、廊下を歩き始めていたあたし達に追いついた。そしてあたしの腕をつかんで止める。

「ホントに、ほんとにコバナなのか?」

 新はあたしの顔を覗き込んで言った。新の綺麗に整った顔が目の前にある。もう、近づき過ぎっていうくらい、近い。