第三十七話  『あたしの家』


 朔也さんはゆっくりと、晶子さんの方を見た。晶子さんは優しい笑みを朔也さんに向けている。「俺は……小花に幸せになって欲しいんです」と朔也さんは言った。

「そうね、そしてあなたも幸せにならなきゃね。今日はご利用ありがとう。良かったら、また来てね」

 晶子さんは励ますようにポンポンと朔也さんの肩をたたくと、出口の方へ促した。朔也さんがレジで精算してくれてから、外に出る。

 あたしは自分でお金を払おうとしたけど、朔也さんから断固拒否された。その後、晶子さんはお店の外まで出てきて、あたし達を見送ってくれた。

 駐車場までの道のりは歩いて五分ほどなので、それほど遠くない。それなのにあたしは、慣れない格好と靴のせいで、何度か転びそうになった。そのたびに朔也さんは笑って助けてくれる。最後には朔也さんの腕にすがって歩くかたちになってしまった。

 そんな調子で歩くことに必死だったため、晶子さんが言っていた気になる言葉、ふぁむ……ナントカについて、朔也さんに質問することが出来なかった。車に乗ってからは、あたしが「ニノ」へ通勤するための手段について話していたので、やっぱり話の糸口をつかめない。

 人と話すのって、難しいな。タイミングを逃すとますます言いにくくなる。

「俺は朝十時から午後七時まで生徒さんをとってるんだ。たまに時間が空いてる日もあるけど、送り迎えは基本的に無理になる。小花は車の免許持ってないんだろ?」

「あ、うん。とってない」

「そうか、それだと徒歩か自転車で通うことになるな。送って行ける時は行くけど……でも心配だな」

「え、そんなっ……。あの、あたし歩くのくらい平気だから。心配しなくても大丈夫だよ」

「いや、行きはいいけど、帰りは遅い。女の子をひとりで歩かせるのは不安だよ。とりあえず自転車を買おう。当面は行き来を自転車にするしかないな」

 あたしは恐縮して下を向いた。自転車まで買ってもらうなんて……。あたしが今まで乗ったことのある自転車は、古いママチャリだけだもの。貸家の隣に住んでいたおばあさんが膝を痛めて使えなくなった自転車を譲ってもらったのだ。小学四年から高校まで使ったけど、最後はあちこちガタがきて動かなくなり、泣く泣く捨てることになった。

「どちらにしても、車の免許は取っておいた方がいいな」

 軽自動車は自宅の駐車スペースに入っていった。あたしは朔也さんのスムーズなハンドルさばきを見て不安になる。あたしに車の運転なんて出来るかしら。母さんは車を持っていたけど、重い荷物の買い物をするときだけしかあたしを乗せることはなかった。もちろん、荷物を運ばせるために。あとは自分だけで車を使っていた。だから実を言うとあたしは車自体、あまり乗ったことがなかった。

 突然、助手席側のドアが開いた。初夏の夕方の涼しい風がフワリと入ってくる。車の免許のことをあれこれ考えていたあたしは、驚いてドアを見た。

「ごめん、一度に色々言われても混乱するよね。どうやら俺は、かなりせっかちなタチらしい」

 そう言って朔也さんは背をかがめ、あたしに向かって右手を差し出した。多分、あたしが砂利詰めの駐車場に慣れない靴で降りて、すっ転ばないように気遣ってくれたんだろう。あたしは有難くその手をとった。

 慎重に地面に足をつき、馴染みないパンプスでどうにかバランスを取りながら立ち上がり、ドアを閉めた。直後、朔也さんがリモコンでドアを施錠する。

「まずは小花がここに慣れることが先決だよな。時間はたくさんあるんだし」

 朔也さんはあたしの手をとり、不安定に立っているあたしの支えになってくれながら、淡く微笑んだ。繊細で美しい笑顔だった。朝日に照らされても夕日に照らされても、美しい人は美しい。あたしはしみじみ、それを実感した。

 砂利をはじく軽い音がする。濃い茶色のかたまりが足元にすべりこんで来た。あたしの足首にふわふわしたものがまとわりついてくる。ラディはくりくりした目であたしを見上げると、小さくミャアと鳴いた。

 あたしはラディを抱き上げた。すると今度は潅木の間を抜けて、留夏が走ってくるのが見える。留夏は頬を赤く染めて嬉しそうにこちらに向かってくる。でも突然その足を止めた。大きな目をまんまるに開いてあたしを見てから、いぶかしそうな顔をする。

 留夏は小首をかしげ、一度兄を見てから、もう一度あたしに視線をもどした。その様子を見ていた朔也さんがプッと吹き出した。

「留夏、小花お姉ちゃんは美容院できれいにしてもらったんだよ」

 笑い含みの顔と声で朔也さんが言う。留夏はパカッと口を開け、何度も目をしばたたいた。しばらくそうしていたけど、どうやら目の前にいるのがあたしだと認識できたらしい。

 留夏の顔には徐々に笑みが戻り、またこちらに向かって駆け出した。留夏は真っ直ぐあたしの方に来た。あたしは腰をかがめてラディを降ろし、留夏を腕に抱きとめた。

 留夏はあたしの胸に一度顔を埋めてから顔を上げ、まじまじとあたしを見つめた。それからあたしの髪を両手で握ると、その小さな口を開いた。あたしは一瞬、留夏が何か言葉をしゃべるのではないかと思った。でも留夏の息は言葉になることは無く、悲しげな表情と共にのどの奥に留まった。

 ツルツルのおでこにキュッとシワを寄せた留夏の表情は痛々しいほど哀しそうで、胸がつまる。あたしは急いで留夏に話しかけた。

「ただいま、留夏。おやつは食べた?」

 留夏はすぐに笑顔を取り戻し、うん、と大きくうなずく。よく見ると口の端に茶色いクリーム状のものがついている。

「わかった。おやつはチョコでしょ? いいなぁ、お姉ちゃんも食べたいな」

 あたしが言うと留夏は嬉しそうに笑って、腕から降りた。あたしの手をつかみ引っ張りながら留夏が歩き出す。あたしは留夏の歩調に合わせて早足になりながら、中庭を抜けて玄関に向かった。後ろから朔也さんが付いてくるのが分かる。

 そうやってみんなで歩きながら玄関に着いた時、ああ、ここはあたしの家なんだなぁ、と急に実感が湧いてきた。その感情は暖かく、掛け値なしに嬉しいものだった。

 家に入るとすぐ、留夏は靴を脱ぎ捨て廊下を走り出した。あたしが後に続こうとすると朔也さんがあたしの肩をつかむ。

「小花、このまま少し待っていてくれないか?」

「え?」

 あたしは言われた意味がわからなくて、隣に立った朔也さんを振り仰ぐ。あたしの横を通り過ぎしな、彼はあたしの肩をポンポンと叩き、「とにかく、待ってて」といって家に上がった。

 あたしは理解不能のまま呆然とした。背を向ける一瞬に見えた朔也さんの顔が、なんだか楽しそうな──というか、どこか面白がっているような表情だったから、 尚更わけがわからない。