第三十五話  『明るい世界』


「小花ちゃん、前髪はどうする?」

 うしろ髪は梳いてもらってかなり軽くなった。問題は前髪だ。あたしの前髪は後ろ髪と同じ長さがある。でもいわゆるワンレン≠ニ呼ばれる髪型とはかなり印象が違うと思う。なにしろ前髪は顔を覆い隠すように前方に垂れ下がっている。

 それは余計なものは見たくないし、なるべく自分を見られたくないという、あたしの暗い性格が如実に現れている部分だ。今更、この性格が変わるとは思えない。あたしは晶子さんに淡々と伝えた。

「今のままでいいです」

 あたしが言うと、晶子さんは少し困った顔をした。何秒か逡巡したあと、思い切ったようにあたしに告げる。

「……それがねぇ、朔也くんから、小花の前髪は必ずカットするように、と言いつかってるの。小花はあの前髪を逃げ≠ノ使ってるって言うのよ。私は見るまでその意味が分からなかったけど、会った途端に理解出来たわ。

 小花ちゃんはその前髪のお蔭で安心している部分もあると思うけど、多分、たくさんのことを損してる気もする。前を見ろとか、明るくなれとか、偉そうなことを言うつもりはないのよ。でも重い前髪を切れば、なにか違うモノを見られるようになるような気がするわ」

 晶子さんは背後から前に手を伸ばし、あたしの前髪を両脇に引っ張った。

「小花ちゃんの髪だから、一応、確認のためにどうしたいか訊いたけど、私も朔也くんの意見に賛成よ。切った方がいいと思う。それに何より、切った方が似合うと思うわ」

 あたしは息を止めた。この前髪を切る──。あまり考えていなかっただけに、全身が硬直するほど緊張した。前髪を短く切りそろえたのはどれくらい前のことだろう。保育園の頃までは母さんが切ってくれたかもしれないけど、それ以降はずっと伸ばしてきた。ここに来て切るのは正直、怖い。

 でも朔也さん……。あたしを受け入れてくれた大切な兄が、それを望んでるんだ。

「わ、分かりました。お願いします」

 あたしが言うと、晶子さんはホッとしたように笑った。「大丈夫、絶対可愛くなるわよ」と言って、前髪を櫛で真っ直ぐに梳き始めた。

「横幅はこのあたりまで前髪としてとるわね」

 晶子さんが左右のバランスをとってから、あたりをつけた部分をあたしに確認した。あたしは鏡を見たくないので、ろくに考えないまま頷いた。ギュッと目をつぶる。シャキン、シャキン、シャキン……とハサミの音が目の前で響く。あたしの頬をいつもくすぐっていた長い髪の毛が、カサリと乾いた音を立て、カットクロスで覆われた膝の上に落ちていく。

「眉にかかるくらいの位置まで短くしたわ。これから梳いていくわね」

 晶子さんは指で挟んだ前髪を、縦にハサミを入れながら薄く仕上げる。ああ、なんか目の前が異様に明るい。長い間忘れていたけど、外の世界は明るいんだなぁ。

 すごく柔らかい刷毛で、あたしの顔についた細かい髪の毛を掃い終えてから「さぁ、出来上がりましたよ。お疲れ様でした」と晶子さんが言った。

 あたしはうろたえた。目を開けるのが怖い。髪を切った自分はどんな風に見えるんだろう。少しでもマシになったのだろうか。もし、切ったあとも今と変わらない幽霊然とした姿だったら、あたしはこの先どうすればいいの?

「晶子さん、終わりましたか?」

 突然、朔也さんの声が聞こえてあたしのお尻は椅子の上で小さく跳ねた。ええ〜!? ホントに朔也さんなの? どうしよう、心の準備が……。

「あら、朔也くん。もう来ちゃったの? 私連絡してないのに」

「ああ、すみません。なんか気になっちゃって……。それでどうですか?」

「今、終わったとこよ。グッドタイミングね。見てあげて、かなり印象違うでしょ?」

 晶子さんはそう言って、あたしが座っている椅子をクルリと回転させた。あたしは結局、自分の姿を鏡で確認することのないまま、朔也さんと対面することになった。椅子に座って、カットクロスを身体に巻きつけた状態で朔也さんを見上げる。

 どうしても鏡の前で目を開けて自分を見ることが出来なかったのに、朔也さんの顔はしっかり見返してしまった。朔也さんは眼を見張ってあたしを見た。まさにガン見≠チてカンジ。彼はしばしの間、言葉を発しなかった。

 ──絶句してる。完全に絶句状態におちいってるぅ!

「ほんとは今から、後ろの髪の長さを確認してもらおうと思ってたの。まだ調整の必要があれば、手直ししますからね」

 手に大きな手鏡を持って、晶子さんが言った。その鏡をどう使うのか見当がつかないまま、あたしはオロオロと朔也さんを見ていた。彼はまだ何も言わない。あたしはここから、この場所から猛ダッシュで逃げ出したくなった。

似合わないんだ。きっとあまりにもヘンだから、朔也さんはなんて言って慰めたらいいのか考えてるんだ……。

「──晶子さんは……天才だね」

 あたしが涙をこらえるために下を向いた時、朔也さんがささやくように言った。あたしは視線を斜め下、兄のスラリとした長い脚に向けて止めた。「あら、ありがとう。でも私の力なんてほんの少しよ。素材がいいんだわ」と晶子さんが言う。

あたしは二人の会話が、髪の出来上がりを褒めているように聞こえたので、おずおずと目線を上にあげた。朔也さんは微笑みを浮かべてこちらを見ている。ああ、またあの女殺しの笑顔……。

 笑顔を返そうと思ったのに、あたしの口元が引きつっただけだった。朔也さんは一歩あたしに近づくと、「とても可愛いよ。よく似合う」と言った。

「後ろの長さがこれでいいなら、もう一度洗ってからセットするわ。どう?」

 晶子さんは持っていた手鏡を使って、あたしの後姿を前方の鏡に映しだした。……へぇ、手鏡はこうやって使うんだ。あたしは朔也さんが似合う≠ニ言ってくれたから安心していたので、「大丈夫です」と即答した。

「良かったわ。じゃあ、このまま手は入れないわね。はいはい、お兄ちゃんはそっちでもうちょっと待っててね。大切な妹さんをもっと可愛くしてあげますからね」