第三十話  『あたしのために』


 あたしは大急ぎで両腕を胸にまわした。顔から血の気が引くのが分かる。いくら朔也さんがオカマさんの仲間でも、ハダカの胸を見られるのは恥ずかし過ぎる。

 息を止め、ギュッと目を閉じてカーテンが開くのを覚悟した。その時、朔也さんの少しハスキーな優しい声が聞こえた。

「遠慮しとくよ。例え妹でもプライバシーってものがあるだろう? ニノさんはランジェリーのプロとして、小花に合う下着を選んでほしいな」

 あたしはホッとしてへたり込みそうになった。朔也さんが紳士で良かった。これが新だったら、嬉々として覗きにくるような気がする。

「あーら、やっぱりアンタはノンケなのね。分かったわ。しっかり測らせてもらうから安心して」

 ニノさんがクックと笑いながら言う。あたしは警戒を解いて目を開けた。朔也さんがここに来なくて良かったけど、ニノさんの言葉の意味が分からない。ノンケ≠チてなんだろう。ニノさんに聞いてみたいけど、生来のビビりが先に立って質問することが出来ないでいた。

「軽く腕を上げてくれる?」

 ニノさんに言われて、ガッチリ胸に回していた両腕を仕方なく上げた。ニノさんはその後、手慣れた様子であたしの胸を測った。裸で測る方法と、ブラをつけた状態で測る方法の両方を試し、結果、あたしのブラのサイズはアンダーが70のCカップだと判明した。

「いい? これからブラを買う時はC70を選ぶのよ。もし体重が増えたり減ったりしたら、その時はまた測るからね。分かった?」

「はい、分かりました」

「じゃあ、お店で好きなのを選んで。なるべく高いのを買いなさいよ」

 しっかりニノさんにクギを刺されて、あたしはやっと試着室から解放された。よろめきながら店内に戻る。すると、朔也さんがレジカウンターの椅子に座って雑誌をめくっているのが見えた。

 あたしに気付いた朔也さんは笑みを浮かべて「終わった?」と訊いた。あたしの胸の奥で、キュッと何かが縮まった。切ないような、泣きたいような、不思議な感覚。

 でもそれは苦しみではなく、喜びだった。こんな風に、あたしのことを待っていてくれる≠ミとに今まで会ったことがなかったから……。

 自分の時間を、心を、あたしの為につかってくれるひとに。

「──どうした? まさかと思うけど、ニノさんに何かされたのかい?」

 朔也さんはあたしの様子にすぐ気が付いて声を掛けてくれる。あたしは急いで首を横に振った。説明しても分かってもらえそうにない。家族やきょうだいに自分のことを待ってもらうのは、普通のひとには当たり前の……当然のことだろうから。

「失礼ね。このあたしが女に手を出すわけないじゃない。この世が終わっても、それだけはあり得ないわ。まぁ、ちょっとおっぱいを触ったりはしたけどね。必要最低限の範囲でよ」

 ニノさんが心外そうな顔をして言った。試着室を出て、たくましい腰をフリフリしながら歩いてくる。ニノさんはあたしに向かって手招きすると「こっちに色々あるわよ」と言って促した。あたしはニノさんの後について、店内の商品棚の間を縫って歩く。

 進みながら改めてお店の商品をよく見てみた。壁にディスプレイされているブラやパンティは、黒や赤の原色系が多い。一体ソレはどうやってつけるんですか? と訊きたくなるような、ほとんど紐だけのパンティらしきものが、壁面にいくつも飾られている。

 ガーターベルトを穿かせた下半身だけのマネキンもあった。ニノさんが案内してくれたブラジャーコーナーには、カップの部分が紛失している、外枠だけのブラをつけたマネキンが立っている。

 あたしは度肝を抜かれて思わず立ち止まった。白いマネキンの乳房はほとんど丸見えで、周りをヒラヒラのレースが縁どっている。はっきりいって、女でも目のやり場に困る。

「なぁにアナタ、これに目を付けたの? 結構いいセンスしてるじゃない」

 ニノさんが嬉しそうに言ってくる。あたしは頬っぺたが引きつりそうになるのをこらえて、彼に質問した。

「こ……これはブラなんですか? なんでカップがないんですか? 何のために?」

「なんのためって、そりゃ決まってんでしょ? ナニの為よ」

 ナニ?

「これを彼の前でご披露してごらんなさいよ。その晩は最高の夜になるわよぅ! アタシはそういう、甘い夜を演出するためのランジェリーをお客様に提供するのが生きがいなの」

 ニノさんは自分でディスプレイした下着たちを、うっとりとした夢見る瞳で見回した。あたしはなんでこの店に客が来ないのか、なんとなく分かった気がした。

 個人商店というだけでも入るのに勇気がいるのに、入った途端、この露出度過多の下着が目に入るのだ。普通の女性だったら、恐れをなして回れ右してしまうだろう。その上、店員がこのニノさんならますます尻込みしてしまいそうだ。

「そうねぇ、本日八千円以上お買い上げいただけたら、このカップレスブラを二十パーセントオフにするわ。アンタ女としての死亡度は高いけど、おっぱいの形に免じてサービスしてあげる」

「ニノさん、それは当面、小花には必要ないよ」

 ため息交じりの朔也さんの声が聞こえた。振り返ると、いつの間にか後ろにいる。朔也さんは困ったような笑みをニノさんに向けている。

「アラ、何よ。妹がアダルトな夜を過ごすのを邪魔するつもり? 過保護な兄ね。まさか一生綿のズロースを穿かせるつもりじゃないでしょうね」

「そうじゃないけど、とりあえず今日は普段使いの下着が欲しくて来たんだ。この後昼食も取りたいし、美容院の予約も入ってるからね。取り急ぎ小花が気に入ったのだけ、買いたいんだよ」