第二十八話  『ニノさん』


 車は商店街の道路をぬって行き、細い通路を左に折れてからソロソロ進んだ。通路の奥には駐車場があった。お世辞にも広いとは言えない駐車場だったけど、朔也さんは器用にバックで車を停めた。

「その後、香月家はまた引っ越したから、真由ちゃんのピアノレッスンはお役御免になったんだ。今の香月の家はスゴイ豪邸だよ。新が言っていたように、香月家が所有する土地の近くに駅が出来たから、売ったり貸したりで、かなりの利益を出しているらしい。

 ──まぁ……その土地も元々はうちの持ち物で、親父が留夏の母親の万里香(まりか)さんと離婚する時、慰謝料として分けた土地だったんだけどね」

 そう言った朔也さんは、厳しく暗い表情をしていた。でもそれもほんの一瞬で、すぐに微笑を浮かべてあたしを見る。

「さぁ、着いたよ。お店はすぐそこだから」

 朔也さんとあたしは車から降りた。朔也さんのあとに付いて、今車で入ってきた細い通路を逆方向に戻りながら歩いていく。表通りに出て、最初に見えた左横の店がお目当てのランジェリーショップだった。

 お店は白っぽい外壁の、二階建てのビルの一階にあった。正面は出入り口用のドアを含めて全面ガラス張りで、いかにも昔ながらの個人商店という印象だ。ガラスのドアにはNino≠ニアルファベッドで書いてある。

 朔也さんはドアの前で少しだけあたしを振り返り、意味ありげな笑みを浮かべてからノブを回した。あたしは急に不安になった。なんたってランジェリーショップだもん。女性が店主の可能性が高い。

 朔也さんの知り合い≠ニいうその人がもし、ものすごい美女だったら……そして朔也さんととっても仲良しだったら──。あたしの胸の中を熱くて冷たい亀裂が走る。ひどく痛い。

 あたしはその慣れない感覚に戸惑った。朔也さんが女の人と仲良くしてるのを想像するだけで、こんなにイタイ気持ちになるなんて……。あたしやっぱり、ちょっとおかしい。

 あたしの気持ちとは裏腹に、カランカラン、とドアについていたベルが軽くて明るい音を立てる。店内は照明が絞られているようで、薄暗く感じた。朔也さんに続いて中へ進むと、ワゴンに詰め込まれたパンツが目に入る。

 ワゴンの側面にセール! 一枚三百円≠ニ書いてある紙が貼ってあった。おしいな……。あたしがいつも買うパンツは二枚で三百円の広告の品だもん。この金額じゃ手が出ないわ。

「こんにちはー」

 朔也さんが少し大きな声で言った。お店の中は静かで、店員さんがいる気配がない。奥の方でガタガタッ、と物音がして、レジカウンター横の出入り口からヌッと人影が現れる。

「いらっしゃ〜い。お待たせしたわね……って、アラ! ルディじゃなァい」

 その人物は、細いヒールのあるサンダルをカツカツいわせながら近づいてきた。甘ったるくてねっとりしたしゃべり方と、満面の笑み。腰を左右に振りながら、いそいそと朔也さんを目指してくる。

「どうも、ニノさん。ご要望のお客を連れて来たよ」

 朔也さんが言う。あたしは唖然とした。それもそのはず「やだぁ〜、嬉しい。ルディってばイイコ!」と答えたその人は、身の丈推定百八十五センチ。身体に張り付くラメ入りの黒いTシャツを着て、ピッタリしたバレエダンサーのようなスパッツを穿いている。柄は黄色をベースにした花柄だ。

 髪はクルーカットの見事な短髪。それなのに、顔にはたっぷりアイシャドウを入れた濃ゆいお化粧。ラガーマンか、プロレスラーのように筋肉モリモリのマッチョマンだけど、しゃべり方も仕草もオンナ。まごうことなく、完璧なオカマさんだった。

「お客が増えるのは助かるわ。見ての通りうちの店には閑古鳥が鳴いてるからさ。もう、ヒマすぎて奥でテレビ見てたのよ。店の商品は充実してるのに、客が来ないのは不思議よねぇ。それで? 売値の高いFカップのコを連れてきた?」

 低い裏声で話しながら、ニノさんと呼ばれたその人は、ひょいと頭を傾けて朔也さんの後ろを見る。がっつりアイメイクされた切れ長の一重の目が、正面からあたしをとらえた。その瞬間、少し細めに見えるニノさんの目が、大きく見開かれる。

「ちょっと、ルディ! あんた坂下(さかした)のヤナギ通りとおったでしょ!?」

 ニノさんはショッキングピンクのマニキュアを塗った太い指を口元に当て、あたしから少しでも遠ざかろうとするように身をよじらせた。その恐れおののいた表情には見覚えがある。あたしをサダコ≠ニ認定した時の、新の顔だ。

「ダメよ、あそこは出んのよ。昔っからこの辺に住んでる人は、なるべくあそこは避けて通るわ。アタシのばあちゃんのばあちゃんが若かった頃、あのヤナギの下で心中事件が起きた話はしなかった?

 女の方だけ死んじゃって、残された男はサッサと新しい恋人つくって夫婦になったの。死んだ女は浮かばれなくて、ずっとあのヤナギの下で恋人だった男を恨んでるのよ。アンタ、その女の幽霊に気に入られちゃったんだわ。背中に憑いてるもの。ああ、コワイ!」

 ニノさんはまくし立てるように話し終えると、胸の前で十字を切った。もしかしてクリスチャンなのかしら。

「あの、あたしは朔也さんの妹で……」

 あたしはニノさんに、自分は生身の人間なのだと説明しようとした。でもニノさんは「ヒィイ!」と野太い声で吠える。

「この幽霊、見えるだけじゃなくてしゃべるわ。エェイ、負けないわよっ。悪霊退散、これを見よ!!」

 ニノさんは派手な花柄のスパッツの後ろポケットから取り出したものを、あたしの顔の前に突き出した。水戸黄門の格さんが印籠を出す時と同じポーズで構えている。

 あたしはニノさんの大きな手の中にあるものがなんなのか、すぐに分かった。いわゆる神社などで売っている、ごく一般的なお守り≠セ。

 赤くて四角いお守りは、何年も肌身離さず身に付けていたんだと分かる。お守りを大事に持っているということは、クリスチャンではないらしい。お守りの赤い布には金色の糸で漢字が書かれている。あたしは年季が入って擦り切れかけているその文字を、目を凝らして読んだ。

「安産祈願」

「なんてことっ。字まで読めるわ! このお守りはアタシのばあちゃんの形見なの。愛情が詰まってんのよ。悪霊はすべて浄化するはずよ!!」

 ニノさんは安産祈願のお守りを掲げたまま、しばしジッとしていた。目を眇めてあたしを凝視しているけど、もちろん何も起こらない。