第二十二話  『みどりピクミン』


 香月夫人は、まだ少し息を切らしながら話を続ける。

「朔也さんはあまり褒められたものじゃないバイトをなさってはいますけど、今やこの近隣の人気ピアノ教師ですし、白金家のお家柄もしっかりしたものです。真由もこのお家に遊びに来るのを楽しみにしていますので、これからもちょくちょく小花さんとお会いすると思います」

「はい、よろしくお願いします」

 そう答えたものの、そうそう頻繁に会いたい相手じゃないというのが本心だった。引きつった顔にならないように気を付けていたけど、表情なんてほとんど分からないのが前髪カーテンのいいところ。

 あたしは相変わらず猫背のまま、こっそり朔也さんの顔を盗み見た。でも朔也さんの表情を見てドキッとした。いつも柔らかな微笑を浮かべている朔也さんの顔が、ヘンに暗くくもって見える。

 巨大な香月麗子さんにがっつり腕を取られた姿は、やむを得ない事情で懐柔させられている年下のツバメのよう。あたしは胸がザワザワした。なんだか無性にこの太ったオバサンをぶん殴りたくなってきた。

「真由、小花さんにパーティの話をしたの?」

 香月夫人が真由さんに言うと、真由さんは勢い込んでうなずいた。

「うん、ママ。ちゃんと言ったわ。小花さん出席しますって」

 ええ!? 出席するって言ったっけ?

「ねぇ、タカくん。小花さんもパーティに参加していいでしょう? わたしひとりだと知らない人ばかりだし心細くって」

 あたしは一瞬、真由さんが誰に話しかけているのか分からなかった。そういえばさっきもタカくん≠チて名前聞いた気がするけど……。

「真由さんならひとりでも大丈夫です。あなたをひと目見ただけで、どんな男性もハートを射抜かれてしまいますから」

 突然、低い男性の声が聞こえて驚いた。声の主の姿がどこにも見えなくて、思わずキョロキョロしてしまう。背の高い朔也さんと、横幅の広い香月夫人の後ろから、ひょこりとスーツの男性が顔を出した。あたしはその人が今までこの場にいたことに全く気付いてなくて、出てきた時はギョッとしてしまった。

「真由さんの周りは、あっという間に人だかりができるでしょう。あなたを放っておくヤツなんて男じゃありません。まぁ、しかし……そちらの女性は……」

 タカくん≠ヘチラリとあたしに視線を走らせる。明らかに小馬鹿にしたような目をしていて、とっても感じが悪い。そんな風にあたしを見るタカくん≠セって、ハッキリ言ってカッコいいとは言い難い。香月夫人より身長が低く、蚊トンボみたいに痩せている。いくつなのか知らないけど、まだ若そうなのに髪の後退が激しい。妙に肌がツヤツヤしていて、縁なし眼鏡をかけた顔は両生類を連想させる。

 でもそんな見た目よりずっと不快に感じるのは、その尊大そうな態度だった。グリーンのシャツの上にもっと深い色味のモスグリーンのジャケットを羽織り、更に深い黒に近いグリーンのズボンを穿き、更に更に深い黒光りするグリーンの靴を履いている。そうか……ここまでグリーンで固めているせいで、青葉が繁る裏庭の風景に溶け込んでしまってるんだ。だから余計彼の存在が分からなかったのかもしれない。

 どこまでも緑好きなタカくんは、その薄い胸板を必死で反り返らせ、目減りした髪の毛を指先でしつこく整えていた。値踏みするようにジロジロあたしを見る視線と、ねっとりと絡みつくように真由さんを見る視線がとにかくいやらしい。初対面なのにこんなにマイナスイメージを持つ人に会ったのは、あたしの人生で初めてだった。

「あっれぇ、ピッくんじゃ〜ん。久しぶりー。いたの全然気づかなかったよ」

 新がいきなりタカくんに向かって言った。タカくんの顔がピクッと引きつる。あたしは横に立つ新を見上げた。新はちょっと呆気にとられるくらいフレンドリーな笑顔でタカくんを見ている。その様子からしてタカくんと新は、相当親しい間柄なのだと思えた。

 それなのに、タカくんは眉をギュウッと寄せて渋面を作っている。スラッと背の高い新をますます反り返って睨みつけ、髪の毛を何度も撫でつけていた。

「その失敬な呼び名はどこから思いついたんですか? ボクの名前は笹山貴之というんだ。ひとを勝手に奇妙なあだ名で呼ばないでほしいな」

「あー、ピッくんはさぁ、ピクミン≠ゥら取ったんだ。あんたのザコっぷりっていかにもピクミンってカンジじゃん。ご主人の真由にひたすらついてくるトコなんか、もう気の毒な位ザコ感に満ち溢れてるよ。今日のお召し物からすると、みどピッくんって呼びたくなっちゃうなぁ」

 新が言い終えた途端、タカくんと香月夫人の顔がサッと青ざめた。新はイタズラ坊主のような笑顔で二人を見ている。ああ、このひと……ぜんっぜんフレンドリー≠ネんかじゃなかったわ……。

「んっ、んまぁ……、あなた、笹山家のご子息に向かってなんて口を……っ」

 香月麗子夫人のお顔が、青から赤に変わっていく。まさにリトマス試験紙で酸性の反応が出たように、下から赤色がのぼってくる。全身がワナワナと震えだして、その場で卒倒しそうな様子だった。