第十六話  『親愛のキス』


 朝食を済ませた後、あたしは朔也さんと一緒に洗い物をやった。昨日は気付かなかったけど、ここのキッチンにはちゃんと引き出し式の食器洗い洗浄機がついている。

 朔也さんは食器類を食洗機に入れて、入りきらなかった大きなお皿などを手で洗っていた。新は洗濯物を干すと言って外に向かい、優くんは居間で掃除機をかけている。

 留夏とあたしは朔也さんを手伝った。あたしは朔也さんが洗い流した食器を布巾で拭き、留夏はそれを棚にしまってくれる。朔也さんは食器洗いをこなす間、家の事を説明してくれた。

「うちは家事を当番制にしてるんだ。昼ごはんは各自だけど、朝食と夕食はサイクルで受け持っている。掃除、洗濯も同じだ。小花にも割り当てをつけるからよろしくな」

「あ、あのう、あたし家事は引き受けます。朔也さんも新さんもお仕事あるんだし、それくらいさせてください」

「それはダメだ」

「え……?」

「家事ってもんは簡単な仕事じゃないし、面倒くさいものだろう? ひとりが主導になって動くと、結局その人に頼ってしまい他の人は責任を持って動けなくなる。汚れていても見て見ぬふり、オレのやることじゃねぇって考える奴も出てくるんだ。

 若いうちに家事をルーティンにしておかないと、結婚して年取ったら家じゃいらないオッサンになる。新なんかその典型だ。俺たちは家の事を分担して、何がどこにあるのかもそれぞれ分かるようにしている。稼ぎがあるからと家で踏ん反り返っていて、結局自分で自分のことすら満足に出来ない老人になるのは、情けない人生だと思わないか?」

 あたしは目からうろこが落ちる思いで朔也さんを見た。こんな考え方をする男の人がいるんだ……。でもこの家にお世話になるのに、家にいるあたしが朔也さん達と家事を平等には出来ない。

「それじゃあ、あたしの分担を多めにしてください。家事とか育児はずっとやってきたので、ちょっとでも役に立ちたいです」

 あたしが言うと、朔也さんは少し驚いた顔であたしを見た。その後、花のように微笑んだ。その笑顔を見てまた心臓がバクバクする。ああダメ、やっぱり新種の病気なのかも……。

「ありがとう。じゃあ、小花と優の分担を多めに設定しよう。もし新の奴に代わってくれと言われても、絶対に引き受けちゃダメだよ。ああそれと……」

 濡れた手をタオルで拭いてから、朔也さんはあたしの正面に立った。近距離に来た朔也さんの顔を振り仰いでみようと思ったけど、近すぎて恥ずかしい。心臓がもっと暴れ出す。

「家事や育児の他にも女の子≠楽しむことも覚えた方がいい。手もガサガサだ。良く働くいい手だと思うけど、きちんとケアすればちゃんと綺麗になる」

 朔也さんはあたしの右手を両手でつかんだ。良く見えるように持ち上げてから、左の手の平にあたしの手を乗せる。朔也さんの右手の指があたしの手の甲をそっと滑った。心臓のドキドキに加えて背筋がゾクゾクする。

「俺が小花を可愛くて幸せな女の子にしてやる。新はああ言ってたけど、この家には小花と優と留夏を養うくらいの余裕はあるんだ。だから心配しないでゆっくり過ごせばいい。それともう一つ、俺たちは家族なんだから敬語を使う必要はないよ。ここは小花の家なんだから、自由にしてていいんだ」

 朔也さんは手を離してから、あたしの長く伸びた前髪に触れた。あたしのワカメ髪を後ろへ引っ張って耳に掛ける。いつも周りを見ないように、周りから見えないようにしていた目が露わになる。そのせいで、涙ぐんでいたのがバレてしまった。

「ほら、この方が可愛い。髪型を変えればもっと綺麗になるよ」

 そう言ってから朔也さんは信じられない行動に出た。なんと、あたしのおでこにキスしたのだ。すでにフル回転寸前だった心臓の鼓動は、一瞬で限界値を超えた。

 あたしがその場でバッタリ倒れなかったのは、ひとえに留夏のおかげだ。留夏は朔也さんが拭いたお皿を食器棚にしまったあと、パタパタと走ってきて朔也さんに手を伸ばした。抱っこをせがむ動作だ。朔也さんは留夏を抱き上げると、ほっぺにチュッとキスをする。留夏はくすぐったそうに肩をすぼめて笑った。

 ああそうか……朔也さんのキスはきょうだいに対する愛情のキスだ。あたしのするのも留夏にするのも同じこと。特別な意味なんてないんだもの、ドキドキすることなんてない。

 そう自分に言い聞かせていたけど、男性に免疫のないあたしが動揺しないはずがない。そっと朔也さんを伺い見る。あたしのおでこに触れた唇や、朝起きた時に見た首筋、ほっそりして見えるのにしっかりした大きな手が変に目に付く。実の兄である朔也さんのことを意識するなんておかしい。

 あたしは朔也さんに引き寄せられる自分の視線を無理矢理下に向けた。足元にはいつのまにかラディがいて、クリクリした目であたしを見上げている。あたしは気を紛らわせる相手が出来てホッとした。手を伸ばしてラディを抱き上げてみる。この猫はホントに小さい。なんていう種類の猫なのかな。

「ラディは小さいだろ。飼い始めて一年になるのにほとんど大きさが変わらないんだ」

 留夏を抱っこしたまま朔也さんが言った。片腕に留夏を抱いて、もう片方の手でラディの頭を撫でる。ラディが小さな声でニャーと鳴いた。

「知り合いに愛猫家がいてね、ソマリの子猫が生まれたんで見に来いって誘われたんだ。三匹生まれたうちの一匹がラディで、この子は生まれつき未熟で上手く育たないかもしれないって言うんだ。元気な子の方を譲ってくれると言われたんだか、留夏がこの子を気に入ってね、離さなかった。命の保証はないって知り合いからは念を押されたんだけど、結局この子を譲ってもらうことにしたんだ」

 留夏がラディに手を伸ばし、顎の下を指で掻いた。ラディは気持ちよさそうな顔をする。

「うちに来た当初は寝てばかりいるし、よく具合が悪くなって病院に行ったけど、ここ半年ぐらいでかなり元気になってきた。でも体はなかなか大きくならない。だから階段も上れないし、鳴き声も小さいんだ。獣医師は今のところ健康に問題はないから、気長に育てて下さいってさ」

 そうなんだ。じゃあラディは小さく見えるけど子猫ってほどでもないことになる。こんなに小さいのに頑張って生きてるんだ。

 もとの飼い主からも見放されそうになった命──。それを朔也さんに救われた。あたしはなんとなくラディが自分に似ている気がして、愛おしくなった。