第十一話  『サク兄』


 心は千々に乱れているのに、あたしの身体はガチガチに固まったままだった。あたしはうら若き十八歳。もうすぐ十九歳。それなのに男性と手を握ったこともない。そんなあたしが突然男の人の腕の中で目覚めたのだ。平静でいられるわけがない。

 どうすることも出来なくてとにかく美しい若者を見つめ続けた。何かの気配を察したのか、彼は眉間にしわを寄せ、ゆっくりと目を開けた。瞳の色は澄んだ茶色。この色、見たことある。あたしは必死で記憶の中の誰かの瞳を思い出そうとした。その時、彼が気だるげに伸びをして、あたしに声を掛けた。

「……小花、起きたのか。もう腹の具合はいいのか?」

 響いた声は艶っぽいハスキーな声。この声も初めて聴く。瞳と同じでやっぱり誰かを思い起こさせる声だけど、あたしの記憶にはない声だった。

「どうした? なんだかムンクの叫び≠ンたいな顔になってるぞ。そんな顔してたらますますホラーっぽくなるから気を付けた方がいい。ホントは凄く可愛いんだから」

 彼は半身を起こすと、あたしの方に手を伸ばしてくる。ほっそりした指先があたしの頬に触れた。あたしは思わずビクッと跳ねた。彼の顔が心配そうにあたしを見る。彼の手が頬から額に移っていく。

「熱はないな。やっぱりまだハライタが抜けないのか。それならもう少し寝てろ。またお腹をさすってやろうか?」

「──あのう……あのぅ……、あなたは誰ですか?」

 あたしはなけなしの勇気を奮い起こして聞いてみた。彼が話していることは耳には届いていたけど、頭の中に入ってこない。色んなことが頭を巡って、ワンワン音が響いてるみたい。

 彼はしばし呆然とあたしを見ていたけど、次の瞬間天を仰いで「ワハハハハハッ」と笑い出した。この笑い方にもどことなく覚えがある。でも今は彼の行動にビックリして思考が完全にストップしてしまった。

 彼は前かがみになりながらしばらく笑っていた。あたしが途方に暮れているのが分かったのか、苦しそうに肩を揺らしながら「ごめん、ごめん」と謝る。一度大きく息を吸い、彼はあたしを真っ直ぐ見た。まだ口元に笑みを残しながら、面白そうに話し始める。

「そうか……俺が誰か分かんなかったのか。まぁ確かにそうだよな。あの髪であの服じゃあ、混乱しても仕方ないか」

 あたしはゴクリと唾を飲んだ。彼は自分の左ひざだけを両手で抱えると、ニコリと笑って自己紹介した。

「俺はルディだよ。昨日小花のお腹をさすってあげたお兄ちゃんだ」

「え……ええええええっっ───ッ」

 あたしは声を限りに叫んだ。それこそもう、屋敷中に響き渡るくらい大きな声だったと思う。まさにムンクの叫び¥態で、頬に両手を当て、アゴが外れんばかりに大口を開けた。

 背後でガチャリとドアが開き、小さな足音が響いた。それから廊下の方でバタンとドアが閉まる音。そしてドスドスとこちらに向かって誰かが歩いてくる音が続く。

 まずルカがあたしの横から顔を出した。目を大きく開けてポカンとしてあたしを見ている。あたしは何も言えなかった。ルカの手が、心配そうにあたしの背中側のパジャマをつかむ。

 「うっせーな、何事だよ」という声が部屋の入口辺りから聞こえる。あたしはギチギチ音が鳴る首を回して、叫び≠フまま背後を振り返った。黒いスエットを着たシンが眠そうに片目をこすりながら立っていた。

 でも一瞬でパンチを食らったような驚愕の表情に変わる。「サク兄がサダコといる……」とシンがつぶやく。あたしはまだ動けなかった。

「……マジやばい。激ヤバだぜ。朝になってもまだいる。しかもサク兄に憑りついてる」

「お前、何言ってんの?」

 サク兄と呼ばれたルディさんであるはずの初対面の美しい若者は(混乱中)つぶやくシンを怪訝そうに見つめた。シンは片手を額に当て目を閉じると、ハアァと深いため息をつく。

「気の毒だな、兄貴。ソレは明るくても視える強力な怨霊だぞ。そういう霊は兄貴みたいに霊感の強いヤツに寄ってくるんだ。さっさと伯父さんとこ行ってお祓いしてもらった方がいい。悪いけどオレは逃げるから。健闘を祈る」

 シンは引きつった顔でジリジリ後ろに下がった。ルディさんというサク兄の王子様みたいに女の人っぽい綺麗な若者は(大混乱中)うなじをボリボリ掻いて、呆れ顔でシンに言った。

「お前また昨日飲み過ぎたろ。霊ってなんだよ。どこにサダコがいるんだ?」

「どこって……ソコ……そこにっ」

「この子のことか? 彼女は小花だ。俺たちの妹だよ」

「ナニィ!?」

 シンは大きくのけ反ると、自分を庇うように両手を前に出した。ブルブル震えて、引きつった顔になる。きっとあたしと同じくらい驚愕の表情をしているはず。でも悔しいことにイケメンはホラーにならない。ビビっていてもカッコイイ。

「そのサダコがオレの妹だとッ? 嘘だ。何かの間違いだ。妹っつうのはもっとこう……キラキラでフワフワで可愛くてプリティでちょいセクシーなはずだろ? そんな地中からニューっと現れたみたいな女が妹のはずがない。怖すぎる。夜中に廊下でバッタリ会ったらオレはキゼツする!」

「何言ってんだよ。小花はちゃんと可愛いよ。ただ今までの環境のせいで黄泉の国の住人みたいになっちまっただけだ。そりゃ今はまだ井戸から出て皿を一枚二枚とか、井戸から這いずり出て画面の外にまで出て来るとか、そういう重苦しい雰囲気かもしれない。でもそれは俺がこれから直す。小花は俺たちの大切な家族だ。お前も仲良くしろ。もしいじめたらお前を井戸にブチ込むからな」

 二人は実に具体的にあたしの印象を口にしてくれた。最初から感じてたけど、思ったことをそのまま口にする兄弟なんだよな……。結構いろいろ突き刺さる気がしたけど、事実だし否定できない。

 それに今まで自分のイメージは墓場≠セと信じてきた。でもこの二人のお蔭で井戸≠セったんだと確認することが出来た。これは新鮮。