第九話  『兄帰宅』


「あたしはあんたのせいで幸運を逃したの。あたしの人生が上手くいかないのは、あんたがいるからなのよ」

 憎々しげに母は言い放った。あたしはその度、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。少しでも良い子でいなきゃ、役に立たなきゃ、と思って家のことも全部引き受けた。学校の級友たちがオシャレや彼氏に夢中になる中、あたしは晩御飯の事をいつも考えていた。

 お小遣いなんてもらえないから、夏休みなどの長期休みにバイトして貯めた。それも母さんが食費を渡してくれない時のために取っておいたので、自分の物を買うことはほとんどなかった。

 ピンクの服……。実はたった一度だけ着たことがある。中学三年の時、卒業祝いにと叔母の美知子さんが買ってくれたのだ。ふんわりしたペールピンクのワンピースは、フリルなんかついていないシンプルなものだった。あたしはドキドキしながらそれを着た。

 でもワンピースを着たあたしを見るなり、母さんはあたしの頬をぶった。似合わない、子供にこんなものはいらない、と言ってワンピースを取り上げ、自分が保険の売り込みの仕事に行く時スカーフと合わせて着るようになった。それからあたしが時々買う服は、黒か茶か、灰色になった。

 あたしは母さんの言う通りだと思った。だって本当に、あのワンピースはあたしに似合わなかったんだもん。人間にはそれぞれ雰囲気というものがある。あたしの雰囲気はどう考えても「夜の墓場」だろう。だからピンクなんて似合わない。

 あたしはお風呂から出てから一応戸締りをして、ルカの部屋に行った。散らばったオモチャをルカと一緒に片づけ、寝かしつけるために本を読んであげる。三冊目の本を読んでいる時、ルカはあくびをしてすんなり寝てくれた。お昼寝をした割にすぐ寝てくれたので助かった。

 ルカの寝顔は本物の天使のようだ。言葉は話せないけどなんでも分かっているし、暴れまわるような乱暴な性格でもない。あたしはルカが愛おしくてたまらなくなった。ルカがいてくれなかったら、あたしはこの新しい環境でもっとオロオロしていただろう。

 ルカが寝入ってしまっても、ピンクの乙女チックな部屋に行く気が持てなくてグズグズしていた。そしたら、その場でウトウトしてしまった。二時間も大荷物を持って歩いてきたから疲れてたのかも。

 ハッと意識が戻ったとき、ルカの部屋の壁掛け時計は深夜十二時になっていた。部屋の電気が点けっぱなしだ。あたしは電気を消そうと立ち上がった。その直後、お腹がゴロゴロいいだした。

 ああやっぱり、とあたしは思った。あたしって初めての環境とか緊張する体験をすると、必ずお腹を壊してしまう。過敏性腸症候群っていうんだっけ。大きな試験とか面接とかがあるとひどい腹痛に襲われるのだ。

 今日は朝から緊張の連続だったから、下痢することは覚悟していた。ダメだ……トイレ行かなくちゃ。トイレはお風呂に入る前に使ったから場所は分かる。難点は一階にしかトイレがない事だ。あたしはルカの部屋の電気を消して、ヨロヨロしながら一階に降りた。

 お風呂場の隣がトイレなので、最後は小走りでトイレに飛び込む。あたしは身悶えながら痛みに耐えた。お風呂と同じくトイレもリフォームされていて、様式でウォシュレットだった。うちはくみ取り式の和式トイレだったから、まるで天国のよう。

 なんとか痛みの波が引いたので、ホッとしてトイレを出た。でも油断は出来ない。また痛みが戻ってくるかもしれない。あたしはすぐにトイレに駆け込めるように居間で待機していようと思って、足を踏み出した。

 それと同時にガチャガチャ玄関方向で音がする。あたしがいる場所は玄関からまっすぐ伸びた廊下だ。玄関ドアが大きく開く。帰ってきたのはシンだった。鍵を指でまわし、鼻歌を歌いながら入ってきたシンは、あたしの姿を見て立ちすくんだ。

 前かがみで腹を押さえ、ディスカントストアで三年前に買ったヨレヨレのパジャマを着て、痛みのあまり髪をふり乱したあたしを見たシンが、立ち止まって息を飲んだのは納得できる。

 あたしたちはお互い無言で見つめ合った。あたしは何か言おうと思ったのに、腹の痛みが去った虚脱感から言葉が出てこなかった。シンは突然遠い目になり、「ダメだ、オレ……」とつぶやいた。

「ダメだわ、もうマジで飲み過ぎた。昼間視たサダコがまだここにいる」

 頭を押さえながらシンは靴を脱ぎ、中に入ってきた。シンが近づいてくると、タバコと香水とアルコールの匂いが鼻をつく。シンはあたしの横を通り過ぎる時、目を閉じてこっちを見ないようにしていた。

 「祟らないで下さい。成仏して下さい。女の子を騙してきたことはどうか見逃して下さい。これからはもっと上手に騙すようにするので、今は赦して下さい。憑りついたりしないで下さい……」とブツブツ繰り返している。

そのままあたしをやり過ごし、階段下まで来て立ち止まった。横目でチラリとあたしを振り返る。シンはサッと視線を逸らすと、目を閉じて天を仰いだ。

「まだ視える……。やっぱシャンパンと日本酒と泡盛のちゃんぽんは良くなかったな。やべーオレ、酔うと霊感が強くなるのかも。今日はもう寝よう。幽霊は夜しか出ないはずだしな」

 シンはひとりごちたあと、頑なにあたしの方を見ないまま階段を上って行った。あたしは追いかけて説明する気力もなくて、黙ってそれを見送った。またお腹がシクシク痛む。でもトイレに戻る程ではなさそう。

 居間に向かうために動こうとすると、玄関がガチャガチャ鳴った。まるでさっきのリプレイを見ているように、ドアが開いて人が入ってきた。