第五話  『ナンダーマン』


 あたしは手首に着けていたヘアゴムで髪をまとめた。

 いつまでも前髪緞帳≠フままでいたらルカを怯えさせてしまう。外を歩く時は髪をカーテンのように垂らして人と視線を合わせないようにするネクラな性格だけど、子供相手にそんな手段は通用しない。

 あたしはルカにニッと笑いかけた。ルカの頬がピクリと引きつる。あたしは自分大好き≠ネ母のせいで、ずっと九歳下の妹の面倒を見てきた。だから子供には笑顔で接するのが一番だと知っている。

 幼い子供にとって相手が美人≠ゥブス≠ゥなんて関係ない。いかに友好的であるか。それが何より重要な要素だ。あたしはゆっくりとルカに近づき、さっきのルディさんと同じようにルカの前でひざをついた。

「ルカくん、お姉ちゃんと一緒にお兄ちゃんを待ってようね。お姉ちゃんはこれからこのお家に住むの。よろしくね」

 ルカは小さな眉間にしわを寄せて、いぶかしそうにあたしを見た。まぁそう簡単に信用してもらえないよね。あたしは時間を確認した。この時間は確か──

「ね、ルカくん。お姉ちゃんとペタペタぺーたん♀マようか? お姉ちゃんねナンダーマン体操¥o来るんだよ」

 あたしが幼児番組の話をすると、ルカの顔がパッと明るくなる。よしよし、つかみはオッケー。中学の頃は妹の相手が面倒だったけど、小さな子の相手をした経験がこんなところで役に立つとは思わなかった。

 ルカは子猫のラディを床に下ろすと、隣の部屋のドアに向かって駆け出した。あたしは自分の荷物を部屋の隅に移動させようとした。でもUターンしたルカがあたしの腕を引っ張って連れて行こうとする。早く見たくてしょうがないのだろう。

 あたしは笑ってルカに付き合った。隣の部屋に入ると、すぐ目に付いたのが32インチくらいのテレビ。その前には座卓があり、下にはベージュ色の絨毯が敷いてある。テーブルの周りにはいくつかクッションが散らばっていて、くつろげる居間という印象。

 ルカは早速リモコンのスイッチを入れた。手慣れた様子で見たい番組のボタンを押す。ちょうど番組のオープニングが始まるところだった。あたしがオープニング曲を歌うと、ルカがあたしの近くに来た。しばらくするとナンダーマン体操≠ェ始まったので、約束通り踊りを披露する。

 ルカはやっと笑顔を見せてくれた。この体操、出演者が毎回違う物を手に持って、「これはナンダ〜、なんだなんだ、何に使うのだ〜」とか言いながら踊るのだけど、その動きが実に奇妙奇天烈なのだ。

 うら若き十九歳の乙女がやるにはヘビーなダンスだけど、どうせルカ以外誰も見ていないし恥ずかしがることはない。あたしが思い切りお尻を突き出してクネクネ踊ると、ルカは手を叩いて声もなく大爆笑した。

 あたしの妹は鈴の音のような笑い声を上げたのを思い出す。どうしてルカは声が出ないのだろう。きっと愛らしい声をしているだろうな、と思うと、ギュッと胸が締め付けられるように痛んだ。言葉が出なくなるほどの、どんな思いをこの子はしたのだろうか。

 あたしも家庭環境が恵まれているとは言えなかった。だから小さなルカが抱えている何かを、出来ることなら取り去ってあげたかった。

 あたしとルカはそのままテレビを見た。ルカはすっかりあたしへの警戒を解き、三十分後には膝の間に座っていた。子猫のラディもあたしの足を相手にじゃれている。ラディは耳のピョンと立った目の大きな猫で、毛の色は濃い赤茶色だ。

 まだ生まれてそれほど経っていないのか、片手に乗せられるくらい小さな猫だった。細くて頼りなさそうな割には動きが機敏なので、おとなの猫がそのまま小さくなったような気がしてしまう。

 ついついのんびりテレビを見てしまったけど、夕飯の支度をしなければならない。あたしはルカに晩御飯の準備をするから待っててね、と伝えた。ルカはちょっと寂しそうな顔をしたあと、頷いてからラディを抱いてまたテレビを見始めた。

 部屋を見渡すと、さっき入ってきたドアとは反対側にもう一つドアがついていた。あたしはルカの頭を撫でてからそのドアに向かった。開けたと同時に、カチャ、とドアが閉まるような音が聞こえた。隣の部屋は薄暗く、ちょっと見なんの部屋か分からなかったけど、ご飯の炊ける匂いと野菜を煮込む独特の匂いが鼻をついた。

 あたしはドアのすぐ横を手で探った。案の定、電気のスイッチを指が捉える。パチンと灯りを点けると、湯気を立てている炊飯器と大きな寸胴鍋が火に掛かっているのが見えた。シンクの横のスペースにはまな板があって、上にステンレスのバットが置かれていた。

 あたしはなんとなく恐る恐る、まな板の前まで移動した。バットの中には下味をつけたフライドチキン用のとりの下もも肉が入っている。ここまで出来ていたら、あとは油で揚げるだけだ。あたしは次にガス台でクツクツと音を立てている鍋を見ることにした。鍋蓋を少しずらしてみる。

 大きな鍋の中身はミネストローネだった。キャベツやトマトや人参などが、ガスの小さな火で煮込まれている。鍋の横にはおたまが置かれていたので、それを取って味見をしてみた。スープの素の味はしたけど、塩味が全然足りない。まだ作りかけという感じ。

 あたしは顎に手を当ててうなった。ルディさんは夕飯を作って≠チて言ってなかったっけ? 作りかけの夕飯を仕上げて、とは言わなかった気がする。それじゃあ、誰かが……途中まで作ってくれたってこと?

 ふと、ドアに目をやった。さっき自分が入ってきたドアとは違う、もう一つのドア。そのドアは完全には閉まっていなかった。ほとんど閉じているものの、ラッチの部分がウケの穴に入っていない。

 まるでそれは、しっかり閉めると大きな音がしてしまうので、ギリギリまでそっと閉めました、という印象だった。となると、今の今まで誰かがここにいて料理をしていたことになる。

 あたしはゾッとした。隣の部屋にいたのに全く気付かなかった。一体誰が──。