第四話  『小さな弟』


「アタシは小花がもっと早くここに来るんだと思ってたの。静香さんには一ヶ月前に連絡入れてたのよ。どうしてこんなに遅かったの?」

「か……貸家の引き払いに立ち会わなくちゃならなかったんです。大家さんからは今日の午後三時に時間を指定されてたので……。それから歩いてここまで来たんです」

「歩いて! 言ってくれれば迎えに行ったのに。二時間くらい掛かったんじゃない?」

「あ、はい……でもあたし、脚には自信あるんで」

 バス代をケチったとはとても言えない。

「何言ってるの、女の子なのよ! まったく静香さんにも困ったものね。自分の子供を平気でほっぽり出すんだから。家の引き払いくらい自分でやりなさいよ。そうだわ、電話! うちに電話くれれば良かったんじゃない。そうすれば迎えに行けたのに」

「それが……母はここの住所しか言わなかったんです。住所とここでお世話になるようにってことを伝えただけで、そのまま電話を切られました。家の固定電話はその日に解約されてしまったようで、つながらなくなりました」

 はぁぁ、とルディさんはため息をついた。あたしはもう、母の所業にはため息すら出なくなっている。

「でもまぁ……小花が無事うちにたどり着けただけでも良かったわ」

 ルディさんは柔らかな微笑を浮かべて、あたしに言ってくれた。あたしはその笑顔を見て、涙が出そうになった。美知子叔母さん以外の人で初めて、あたしのこと≠気遣ってくれる人に出会えた。

 ルディさんはそっとあたしの肩をたたいてくれる。こんな素敵な人がお兄さん≠セなんて信じられない。──いや、ルディさんはオカマさんだからお姉さん≠ノなるのかな。

「ほんとはもっとゆっくり話を聞いてあげたいんだけど、あたしもうすぐ出なくちゃならないの。そうだ、小花アナタお料理出来る?」

「ハァ、少しは」

「そう、それは良かったわ。シンのバカが食事当番をサボるから、今日の夕飯がないのよ。悪いけど作ってもらえると助かるわ。メニューはミネストローネとフライドチキンよ。アタシとシンは夜の仕事に出るから少しは食べてくるんだけど、外食はあまり好きじゃないの。だから家に帰って食べ直すのよ。帰宅は夜十二時くらいね。それとあと二人家族がいるわ」

「──二人、ですか?」

「ええそう。自分のお部屋が大好きな十五歳の弟と、五歳の末っ子よ。十五歳の方は勝手にやるからほっといていいわ。問題は五歳の方。こっちは食べさせてあげなきゃなんないけど、大丈夫かしら?」

「大丈夫……だと思います。その子人見知りしますか?」

「そうねぇ、いう事は聞くと思うわ。ただね、口がきけないの」

 あたしはまた目をむいて絶句した。口が──きけない……?

「体の方はね、異常はないの。耳も聞こえるし脳にも問題ないわ。うなずくとか、首ふるとかでコミュニケーションも出来るのよ。ただ言葉が出ないだけなの」

 ルディさんはフーッと息を吐くと、心配そうに眉をひそめた。

「医者は精神的なものだろうって言うんだけどね。あの子の母親は死んじゃってるし、それも関係してるのかもしれないけど……」

 手を組み合わせて伏し目がちに語るルディさんは、痛々しく見えるほど哀しそうだった。あたしは胸がズキンと痛んだ。ルディさんに哀しい思いをさせたくない。この突然できた綺麗で優しい兄(姉?)に、こんなにつらそうな顔をしてもらいたくない。

 ちっぽけなあたしに出来ることなんて少ないだろう。でも少しでもルディさんの役に立ちたい。いつもぼんやりしてて意志の弱いあたしだけど、この時強く、ルディさんの力になること≠心に誓ったのだ。

 ゴーゴンか、はたまた三陸ワカメのように揺れる前髪の奥で、あたしは決意を固めて歯を食いしばった。その時「ルカ」とルディさんが言った。あたしは身を乗り出してルディさんの視線を追った。部屋の入口近くに小さな猫を抱いた幼い男の子が立っている。

 シンに似た茶色の髪と青白く見えるほどの白い肌。ルディさんを幼くしたらこんな顔かも、と思える可愛らしさ。女の子みたいな顔立ちだけど、青地の長Tにカーキ色の七分丈のズボンを穿いているから男の子だと分かる。

 お昼寝から目覚めたばかりという顔で、片手で猫を抱き、もう片方の手で目元をこすっていた。ルディさんはサッと立ち上がり、男の子の前にひざまずく。

「おっきしたのね。今日ね、お兄ちゃんお仕事になっちゃったの。だから晩御飯はこのお姉ちゃんと食べて欲しいの。出来るかな?」

 ルディさんが振り返って手であたしを指し示す。ルカと呼ばれた男の子は怯えたように縮こまり、猫をギュッと抱きしめた。

「お姉ちゃんの名前は小花よ。小花お姉ちゃん。初めて会うからドキドキしちゃうかな? 真由ちゃんに来てもらった方がいい?」

 ルディさんが問いかけると、ルカは小さな肩をすぼめてますます縮こまった。子猫の毛に顔を埋めて首を横に振る。ルディさんは壁掛け時計で時間を確認し、少し困った顔をした。そして言い聞かせるようにルカに伝える。

「それじゃあ小花お姉ちゃんといてね。大丈夫、優しいお姉ちゃんだから。ラディも一緒だし怖くないよ。お兄ちゃんはもう行くからいい子で待っててね」

 言いながらルディさんがルカを抱きしめる。猫のラディが「ニー」と鳴く。ルカの小さな頭がルディさんの腕の中で縦に動いた。頷いたらしい。ルディさんは腕を離し、ルカの頭を撫でると立ち上がった。バッグを取り「行ってきます。あとよろしくね」と言って忙しなく出て行く。

 あたしは慌ただしく動くルディさんを呆然と見ていたけど、バタンと玄関の閉まる音で我に返った。ルカはさっきと同じ場所で立ち、ジッとあたしを見ている。