第二話  『源氏名』


「あ、あの……」

 あたしはパキパキ鳴ってしまう腕をしたに下げて、右手に持っていたボストンバッグの取っ手を両手で持った。大したものは入ってないけど、このバッグの中身があたしの全財産。

 母さんのお古のバッグは、縫い目が避けそうなくらいギュウギュウ詰めにしてある。服は最小限のモノしか持っていない。でも冬のコートを入れるとバッグはハチ切れそうになった。

「ああ、分かったわ! あなたコノカね?」

 パチンと両手を合わせて彼女(彼?)が言った。この人があたしの名前を知っていることに驚いたけど、とりあえず無理やり声を絞り出した。

「は……はい。私は桜森小花(さくらもりこのか)です」

「やっぱり。静香さんの娘さんでしょ? まぁそれにしてもアナタ……」

 金髪美女があたしの母さんの名前を言ったことで更に驚いた。母を知っているんですか? と訊こうとして、気の毒そうな表情の綺麗な顔が自分を見下ろしているのに気づく。

「アナタ本当に貧相ね。シンの奴、なんて失礼なことを言ってるのかしらと思ったけど、アイツの意見に賛成だわ。その服といい、髪型といい、いかにも幸薄そうな雰囲気……。昔ラジオで聴いた不幸子(ふさちこ)≠チて歌を思い出したわ。不幸が全身から滲み出てるわよ。ああ、キノコが生えてきそう」

 片手を口元に当てて、憐れむように美女が言った。ほっそりした指の先の爪には、赤を基調にしたネイルアートが施されている。そりゃ、こんな綺麗な人から見ればあたしなんてゴミみたいだろうな、と思う。それにしてもさっきのシンて人といい、この家の人は容赦なくホントの事を口にする性質らしい。

「まぁいいわ、中に入りましょ。夕方になると急に寒くなるから」

 カタカタとサンダルを鳴らして歩きだし、美女はあたしの荷物を取った。ドアノブに手を掛けて「そうだわ」とつぶやいて振り向く。

「まだ自己紹介してなかったわね。アタシはこの白金(しろがね)家の世帯主でルディっていうの。よろしくね」

 耳元のピアスを揺らしながら後ろのあたしを振り返り、美女はニッコリ笑いかけた。「よ……よろしくお願いします」と返して、あたしは頭を下げる。

 ルディ……。この人ルディさんっていうんだ。外人さんかぁ。どうりで自分の意見や感想をハッキリ口にするはずだ。でもあたしが貧相なのはホントのことだもの……。傷つかない、傷ついちゃダメよ。

「あの……ルディさんって日本語お上手なんですね」

 あたしは玄関の中に入りながら、何か気の利いた事を言おうと思ってルディさんに話しかけた。サンダルを脱いであがりかまちを跨いでいたルディさんは、突然「ぶっ」と吹き出す。「わっはっはっは」と豪快な笑い声を上げると、振り向いてあたしを中に促した。

「どうぞ上がって。それとなんか誤解してるみたいだけど、アタシはバリバリの日本人よ。ルディっていうのは源氏名。叔父の経営してるゲイバーでバイトしてるんだけどね、そこでの呼び名がルディっていうの。

ちなみに今からその仕事に出なきゃなんないのよ。今日は出ない日だったんだけど、風邪で休んだコがいてピンチヒッター頼まれちゃって」

 廊下をせかせかと歩きながらルディさんが説明してくれる。あたしは首筋に冷気が走る思いで「ス、スミマセン……」と謝った。古い木造洋館の廊下は薄暗く、歩くとキィキィ音が鳴る。背中を丸め、赤らむ頬を隠すために板張りの床を見つめた。

 あたしっていつもこう。友達といても会話のテンポについて行けず、気負ってしゃべると的外れな事を言ってしまう。あんたってトンチンカンよね、と母さんからもよく言われたっけ。もう、なるべくしゃべるのをやめよう。会話をしなければ、会話で失敗することもない。

「あなた今、会話をやめようって思ったでしょ?」

 心の中で思ったことをルディさんに言い当てられて、あたしは思わず足を止めた。ルディさんは左側にある部屋の入口の前に立ち止まり、あたしを見ている。ルディさんの視線は冷たくて硬い。あたしはますます背中を丸めて縮こまった。

「思ってるのね? バカね、間違うのなんて誰にでもあるわよ。アタシは髪もこんなだし、外人みたいな呼び名を教えられたら勘違いするの当然だわ。笑ったのはバカにしたからじゃないわよ。外国人に間違われた自分が笑えただけ。この家で遠慮はいらないわ、話したいことは何でも話しなさい。ね?」

 最後は少し笑顔をもどして、ルディさんは部屋の中に入った。あたしはちょっとだけ呆然としていたけど、急いで後を追った。ニスの塗られた艶のある木のドアは大きく開け放たれ、ストッパーで押さえてある。

 ルディさんの言葉は、あたしの心をほんのり温かくした。対人恐怖症で初対面の人が苦手で、初対面じゃなくなるともっと苦手になる性癖のあたしにしては珍しく、肩の力が抜けた気がした。まだまだ気を抜けないけど、少なくともこの人は話を聞いてくれる相手だ、と思えたから。

 ルディさんに案内された部屋は、応接間のようだった。深い茶色の床板に毛足の短い灰茶の絨毯が敷かれている。その上に緑色をしたビロード張りのソファが一対と、木のテーブルがあった。

 薄い光が差し込む大きな窓には格子が入っていて、ガラスの向こうは芝の生えた庭だった。驚いたのは、ソファの奥にグランドピアノがあったこと。黒光りするピアノは、すべてがアンティーク調の白金家にしっくりと溶け込んでいた。

「お茶でも出してあげたいけど、アタシも出掛けなきゃなんないの。それで? 静香さんからはなんて言われて来たの?」

 ソファの横にあたしの荷物を置いてから、ルディさんはソファに腰かけた。テーブルの上に乗せてあった黒の肩掛けバッグを手に取ると、ふたを開けて中を確認し始める。あたしはまたキュッと緊張しながらルディさんの質問に答えた。

「……母からはここの住所を教えられて、白金さんに会いなさいと言われました。あの……それと……」

 あたしは言葉につかえてゴクンとつばを飲み込んだ。この人は今からあたしの言う事に対して、どんな反応を示すだろう。

 もしこのルディさんが何も知らなかったら、あたしはこの先どうしたらいいのか分からない。